18世紀後半、将軍より上の存在として天皇を尊ぶ尊王論が広がり始めました。
そんな中、日本史上初となる尊王論者を弾圧した宝暦事件が起こりました。
今回はその『宝暦事件』についてわかりやすく解説していきます。
宝暦事件とは
(竹内式部の銅像 画像引用元)
宝暦事件とは、1758年(宝暦8年)、尊王論者の竹内式部が天皇や公家たちに尊王論を講義していることが摂関家の一条道香によって江戸幕府に密告され、竹内式部が京都を追放されることになった事件のことです。
日本史上初の尊王論者を弾圧した事件といわれています。
尊王論とはもともとは中国の儒教からもたらされた王者を尊ぶ考え方。
日本では王者が天皇に置き換えられ、将軍より上の存在として天皇を尊ぶという日本独自の尊王論に進化しました。
宝暦事件の背景
(垂加神道を説いた山崎闇斎 出典:Wikipedia)
①竹内式部が学んだ垂加神道
垂加神道(すいかしんとう)は、1671年山崎闇斎(やまざきあんさい)によって説かれた思想です。
山崎闇斎は京都の臨済宗妙心寺の僧侶から学者へ転身した人物。あらゆる学問に精通していて、肩書は、儒学者、朱子学者、神道家、思想家と多彩でした。
山崎闇斎がこれまで学んできた神道と朱子学に、陰陽道、気学も取り入れ、融合させた新しい神道、それが、垂加神道です。
その垂加神道の中核をなす考え方が、天皇を尊び、皇室の絶対化を主張する“激熱な” 尊王論でした。
この垂加神道は、京都を中心に全国へと広がり、一時は他の神道流派を圧倒するほどの支持を集め、尊王論で有名になる水戸藩オリジナルの水戸学にも影響を与えました。
そして、山崎闇斎の説いた垂加神道を学び尊王論者となったのが、宝暦事件の主役、竹内式部でした。
②江戸時代の天皇と公家
江戸幕府は、1613年公家を取り締まる公家衆法度を制定すると、つづく1615年、大名たちを取り締まるための武家諸法度、さらには、天皇や朝廷を取り締まる禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しました。
禁中とは天皇のことで、禁中並公家諸法度は、日本の歴史上初めて、武家が天皇の行動を規定した法律となりました。
江戸幕府が天皇に与えた権限は年号や暦を制定するといった政治に支障を及ぼさない程度。朝廷が権力を持ったり、大名たちと極秘でコンタクトをとったりしないよう、天皇や公家の生活行動に規制をかけ、京都で大人しくさせ、幕府へ反抗できないようにしました。
さらに、幕府の直轄地、幕領約400万石に対して、朝廷(天皇)の直轄地、禁裏御料(きんりごりょう)はわずか1万石。わずか1万石!
天皇をはじめ公家たちの力は、幕府の思うままに、弱まっていきました。
そして、江戸幕府第9代将軍・徳川家重の時代になると、鎌倉時代以降、朝廷の要職を任されてきた公家のトップ5、五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の当主が次々死亡し、経験も知識もない若い当主たちに代替わりしました。
これをチャンスと見たのが、復古派の中流階級の公家たち。
幕府の言いなりになっていた五摂家に不満をもち、朝廷の権威を高め、天皇の権力を復活させたいと思っている尊王的な思想をもった人たちでした。
五摂家の力が弱いうちに、朝廷内で自分たちの支持を集め、現在の状況を変えたかったわけです。
そこで、復古派の公家たちは、仲間を増やし、反対派に対して理論武装するため、尊王論などを学ぶことにしました。
その時、講師として招いたのが事件の主役竹内式部でした。
そして、これが事件の発端となるのです。
宝暦事件の内容
(徳川 家重 出典:Wikipedia)
宝暦事件は、1758年(宝暦8年)、江戸幕府第9代将軍・徳川家重の時代に起こった事件です。
事件の主役は垂加神道を学んだ尊王論者竹内式部。越後の医師の子として生まれた竹内式部は、京都の公家、徳大寺家に仕え、垂加神道を学びました。
そんな時、復古派の公家たちからお声がかかり、神道の書物、儒学の書物などを使って、尊王論について講義をはじめました。
公家たちは、当時十代だった若い桃園天皇にも竹内式部の講義を聴講するよう誘いました。若い桃園天皇にとって、竹内式部の講義は新鮮で、天皇を尊ぶ朝廷中心の政治の在り方にさぞや興味をもったことでしょう。
この状況に危機感を募らせたのが、五摂家の中で唯一経験のあるベテラン当主だった一条家の一条道香(みちか)でした。
一条道香は、尊王論が朝廷内に広がり朝廷と幕府の関係が悪化するのを恐れ、京都の幕府の出先機関である京都所司代に告発しました。
江戸幕府は天皇にまでレクチャーしていた竹内式部の行動を危険と判断し、京都から追放。そして、尊王論を学んだ復古派公家8人を謹慎処分としました。
この宝暦事件は、日本の歴史上初となる尊王論者の弾圧事件となりました。
宝暦事件のその後
宝暦事件の時、竹内式部には尊王論をともに説いた藤井右門という仲間がいました。
藤井右門は、宝暦事件をきっかけに江戸に逃れ、山県大弐(やまがただいに)の家に身を寄せました。
山県大弐は、医学、朱子学、神道、兵学を学んだマルチな人物で、その当時は江戸で弟子たちに兵学を教えていました。
1759年には『柳子新論(りゅうしんろん)』を書き、君主は一国に二人いるべきではないと朝廷と幕府の二重構造の問題を批判するなど尊王論を説いて、江戸幕府を批判しました。
そんな山県大弐のもとに同じく尊王論者の藤井右門がやってきて、反幕府的な過激な話をしたり、江戸城攻略する作戦を話したりしていたため、山県大弐の弟子たちは“うちの師匠、やばすぎない?”と疑念を抱き、幕府に密告しました。
幕府は山県大弐の幕政批判と藤井右門の過激な発言を危険視して、二人とも死刑にしました。これが1767年の明和事件です。10代将軍徳川家治の時代でした。
この明和事件では、宝暦事件で処罰された竹内式部も関与を疑われ、八丈島への流罪を言い渡されました。
竹内式部は八丈島へ流される途中、三宅島で病死しました。
宝暦事件と明和事件の語呂合わせ
関係のある1758年宝暦事件、1767年明和事件は、一緒に覚えておくと便利です。
覚え方は・・・・
『イナゴは、放れ!』
『それは迷惑、ろくでなしっ‼』
です。
イナゴを捨ててしまえ!という意味で、『イナゴは(1758)ほうれ(宝暦)!』と、ある人が言います。
それに対してもう一人が怒鳴り返し、相手を非難します。
『それはめいわく(明和)、ろく(6)でな(7)しっ‼』とね…。
まとめ
・宝暦事件は1758年竹内式部が天皇や公家たちに尊王論を講義したことで京都を追放された事件のこと。
・尊王論者を弾圧した日本史上初の事件といわれている。
・竹内式部は山崎闇斎によって説かれた垂加神道を学んだ
・語呂合わせは、『イナゴは(1758)ほうれ(宝暦)!』、『それはめいわく(明和)、ろく(6)でな(7)しっ‼』