いわゆる「殿様」と呼ばれる身分の人たち。
江戸時代には同じ殿様でも「旗本」「譜代」「外様」など様々な種類がありました。
今回はその違いについてわかりやすく解説していきます。
目次
旗本・譜代・外様の違い
まず始めに3つの共通点と違いについて簡単に述べておきます。
3つに共通しているのは「将軍に拝謁する資格がある」「徳川将軍家の直臣」ということです。
それぞれの区別は次の部分でされます。
✔ 旗本
石高が1万石未満で三河時代から徳川家の家来だった。幕府の役職に就いている。
✔ 譜代
石高が1万石以上。三河時代から徳川家の家来だった。幕府の高級官僚。
✔ 外様
石高は1万石以上。関ケ原の戦い前後に徳川家に臣従。幕府の役職には就くことができない。
つまり、石高と幕府の役職に就けるかどうかで違いが分かれているのです。
それでは詳しく違いを見ていきましょう。
旗本について詳しく解説!
①旗本とは
江戸時代における旗本とは将軍に直属する武士のうち、石高が1万石未満の人たちでかつ、将軍に拝謁することが可能な身分の人を指します。
同じように石高が低い身分には御家人というものがありますが、こちらは将軍に拝謁することができません。
また御家人との違いとして旗本は領地を持っていますが、御家人は俸禄支給をもらっていたので領地を持っていませんでした。
②旗本になった家系
旗本になった家にもいくつかのパターンがありました。
一つは徳川家が三河にいたときから代々家来だった家です。
こうした旗本の代表例が大岡越前守忠相を輩出した大岡家や小栗上野介忠順を輩出した小栗家になります。どちらも先祖が家康に仕えたことから家が始まりました。
そしてもう一つは名家の末裔です。
例えば、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の息子の今川氏真はのちに家康の庇護を受け、その孫が徳川家の旗本として取り立てられています。
また、武田信玄も宗家は滅びましたが、5男の仁科盛信の子どもが徳川家の旗本として取り立てられました。
他には吉良家もあります。忠臣蔵の吉良上野介が有名ですね。
今川家も吉良家も室町幕府の将軍であった足利家の親戚筋にあたる由緒正しい名家です。
その点で言えば徳川家よりも家柄は上と言えます。
室町時代からのしきたりなどにも詳しい家柄だったのでこうした家は高家という別格の扱いを受けました。朝廷との交渉役や儀礼において活躍したのです。
③旗本の役割
旗本はそもそも将軍直属の軍事力として期待されていました。
ただ、江戸時代の大半は戦乱のない平和な時代であったために、幕府の役人として過ごしていました。町奉行や勘定奉行などの役職に就いたのです。
しかし石高が少なければもっと低い役職にしか就けませんでした。
旗本は領地を持っているので、自分の領地を維持管理する必要がありましたが、石高が小さく範囲も狭いため治めるには非常に効率が悪いものになっていました。
また、必要な軍務を担うには収入が不十分であるという問題もありました。
幕末になると諸外国や諸藩と対抗するための軍事力が必要になりましたが、こうした理由などで旗本八万騎と呼ばれた将軍の軍隊は全く役立たずのものになっていました。
譜代について詳しく解説!
①譜代とは
譜代とはそもそも代々主家に仕えてきた家を指します。
長年の主従関係から信頼関係が深い家来ということ。言葉としては江戸時代以前からありました。
江戸時代における譜代とは三河時代から徳川家に仕えていた家のうち、主に家康の関東移封時に一万石以上を与えられて大名になった家を指します。
さきほどの旗本との違いは「石高の違い」。一万石以上領有すると大名になります。
将軍に拝謁する資格はもちろん持っていました。
②譜代になった家系
譜代大名になった家は、旗本と同じく家康が三河にいた時代からの家来である、という家がほとんどです。
徳川四天王に挙げられる、酒井・本多・榊原・井伊がこの代表例です。
こうした家は徳川家を支える役割を期待されていました。
戦国時代には軍事力として期待されていましたし、江戸時代になると政治面で支えることを期待されたのです。
譜代の場合は旗本ほど取り立てられた家はありません。
ケースとしてなかったわけではありませんでしたが、旗本から加増され大名になったことで譜代大名となったり、血縁関係で譜代扱いとなった家もありました。
しかし、数はそこまで多くはありません。
③譜代の役割
譜代は石高としては1万石以上ありましたが、後述する外様に比べると石高ではそこまで多くはありませんでした。
譜代筆頭とされる井伊家でも最初は彦根18万石、のちに増えて30万石でした。だいたい譜代は5~10万石程度と捉えておけばいいでしょう。
石高が大きくなかったものの領地としては江戸や京・大阪の近くや東海道沿いなど重要な場所を与えられました。
また、譜代は大老や老中となって幕政の中心を担ったり、京都所司代や大阪城代、側用人といった重要な役職に就きました。
江戸幕府の仕組みとしては将軍が必ずしも政治を行うわけではありませんでした。
将軍に求められたのは家康の子孫であるという血筋です。家康の子孫が有能であるとは限らないので、政治そのものは家来である譜代大名の中から能力のある人物が老中として行えばいい、という考え方でした。
老中は一人ではなく、数人で担当していたので独裁はあまりおきませんでした。
しかし、改革をしようとしても足を引っ張られるので中途半端に終ってしまうこともありました。
大老としては井伊直弼、老中としては松平信綱、松平定信、水野忠邦、阿部正弘といった人たちが有名です。
外様について詳しく解説!
①外様とは
外様とは、譜代と比べると主従関係が結ばれている期間が短い家来を指します。
言葉としては現代でも使われることのあるものです。
生え抜きではなく外部からやってきた人材などに使われますが、あまり良い感情を持った状態では使われないので注意が必要です。
②外様になった家系
歴史用語としての江戸時代における外様とは関ヶ原の戦い前後に徳川家に臣従した家を指します。
秀吉没後の権力争いの中で次の時代は家康と考えたり、実質的に豊臣政権を運営していた石田三成と合わなくて家康側についた人たちでした。
前田家や伊達家、浅野家、加藤家、福島家、藤堂家などです。
また関ヶ原の戦いで敗れたのち、家康に許されて臣従した家も外様に入ります。こちらには島津家や毛利家、上杉家などが含まれます。
彼らは豊臣政権下において、豊臣家の家来の大名家という意味では徳川家と同じ立場場でした。
その意味で譜代が豊臣家からすると陪臣に当たるのに対し、外様は豊臣家の直臣でした。
外様大名は領地としては大きな範囲を支配し、江戸や京・大阪からは比較的遠い地方を領有していました。
これはもともと地方を統一したのち豊臣傘下に入ったり、関ヶ原の戦いの論功行賞で領地が増える代わりに地方へ移動させられたからです。
外様大名の中には養子をもらうなどで徳川家との血縁関係が深まった結果譜代扱いとなった大名もいました。
③外様の役割
外様大名は中央政権に参加する資格はありませんでした。江戸幕府の役職には一部の例外を除き就けなかったのです。
例外というのは対馬の宗氏が朝鮮との外交を担当するなどの事例でした。
地方において大きな領土を支配している外様大名は幕府から警戒もされました。
領土が大きく石高が大きいということは、収入が多く軍事力が高くなりがちだからです。
そこで江戸幕府は些細なことで改易や取り潰しをしたり、参勤交代によってお金を強制的に使わせるようにもしました。
また、婚姻などを通して関係を深めることもしていきました。
まとめ
✔ 旗本、譜代、外様は江戸時代の武士の区分。
✔ どれもが将軍に謁見する資格を持っていた。
✔ 旗本は昔からの徳川家の家来のうち、石高が1万石未満の家。
✔ 旗本には没落した室町時代の名家から取り立てられた家もあった。
✔ 譜代は昔からの徳川家の家来で石高が1万石以上の家。
✔ 旗本も譜代も家格に応じた幕府の役職に就いていた。
✔ 外様は関ケ原の戦い前後に徳川家に臣従した家。
✔ 外様の石高は大きいが幕府の役職には就けなかった。