明治維新によって江戸幕府が滅亡し、天皇を中心とした新たな政治体制が始まりました。
明治新政府の目標や国民に向けて発信された情報が、この時期を境に発布されていきます。
それが、五箇条の御誓文と五榜の掲示です。
双方とも、発表されたのが1日違いであり、同じく5という数字もあってか、非常に紛らわしい。
今回は、『五箇条の御誓文と五榜の掲示の違い』について、簡単にわかりやすくお伝えしていきます。
目次
五箇条の御誓文と五榜の掲示の違い
最初に、五箇条の御誓文と五榜の掲示の違いについてまとめていきます。
〇発布した人とその目的が違う
五箇条の御誓文・・・明治天皇が神々に政府の方針を誓って出した文章
五榜の掲示・・・明治政府が国民に対して発表した決まりごとのまとめ
〇記載の内容が違う
五箇条の御誓文・・・これから明治政府が行っていく政策の元になることが書かれている
五榜の掲示・・・君主や父を大切にすることや、キリスト教禁止等、5つの決まり事が書かれている
〇発布された日が違う
五箇条の御誓文・・・1868年
五榜の掲示・・・1868年、五箇条の御誓文発布の翌日
〇アピール先が違う
五箇条の御誓文・・・国民および諸外国に対して、天皇中心の政治方針をアピール
五榜の掲示・・・国民に対しての決まり事をアピール(反新政府勢力の活動地域は除く)
〇廃止の有無
五箇条の御誓文・・・声明文なので廃止がない。歴史上撤回もなし。
五榜の掲示・・・1893年には全て廃止。新たな政治体制へ。
ここからは、「五箇条の御誓文」「五榜の掲示」それぞれについて詳しく解説していきます。
五箇条の御誓文について詳しく解説!
(御誓文 出典:Wikipedia)
五箇条の御誓文は、明治天皇が新政府の目標や方針といったことを神々に誓うために出した文章のことを言います。
この御誓文を基にして、明治政府は新たに政治を動かしていくのです。
①五箇条の御誓文の目的は全世界に対しての天皇中心制アピール
五箇条の御誓文が発布される以前は、戊辰戦争も起きているうえに、打ちこわしや世直し一揆と言った民衆の反乱で、情勢自体はかなり不安定でした。
更に、諸外国は江戸幕府についているような状態。
その為、これから新しい政治方針として、天皇が中心となったことを、国民や諸外国に対して認知してもらう必要があったのです。
これが、五箇条の御誓文発布目的です。
②記載の内容
五箇条の御誓文に記載された内容を、意訳して簡単に説明していきます。
1.日本中から優秀な人材を身分関係なく集めて会議をする
→国会開設の基礎。江戸時代では身分のある人たち以外は政治に参加できなかったため。
2.身分関係なく日本を治めて行こう
→江戸時代にあった士農工商という身分制度を廃止し、身分の平等化を図る
3.政府や武士、一般の国民もそれぞれの責任を果たし、目標を達成していこう
→国民へ向けてのメッセージを兼ねており、日本全体で近代化を進めていくために、国民も各々の目標を達成してほしいというもの。後の国民皆兵や殖産興業に繋がる。
4.これまでの悪い風習を捨て、何事も道理に合った方法でやっていこう
→悪い風習とは、江戸時代の風習のこと。
これをなくして、欧米の進んだ風習をどんどん取り入れることで、日本の近代化に繋げていこうという意思表示。ちょんまげの断髪や、廃刀令をはじめ、仏教で禁じられていた食用牛肉の解禁に繋がる。
しかし、影では廃仏毀釈という、仏教関連の伝統を壊す行動も。
5.智識を世界に広めていき、天皇を中心に、日本やこれまでの伝統を大切にしながら、日本を発展させていきましょう
→ただ単に欧米文化を取り入れるだけでなく、日本の伝統や文化を世界に発信しましょうという内容。現在のCool Japanにも繋がる内容です。
③最後に天皇のコメントがある
五箇条の御誓文の最後には、明治天皇のコメントが記されています。
簡単に言うと、『かつてない大変革を行うにあたり、私(明治天皇)は天地の神々や祖先に誓い、重大な決意のもとに国政に関する基本方針を定めていきます。日本国民全体がこの五箇条の御誓文に基づき、一緒に新しい時代を築いていくために努力していきましょう。』
という感じです。
以上で、五箇条の御誓文は締めくくられています。
五榜の掲示について詳しく解説!
五榜の掲示とは、同じく1868年に明治新政府が、五箇条の御誓文の1日後に発表したもの。
同じ時代ですが、発表日が違います。
五榜の“傍”というのは、時代劇によく登場するあの立札のことを指します。この立札によって国民に対して伝えられたものなのです。
①五榜の掲示の目的
時代が江戸から明治へ転換する日本は、戊辰戦争直後の物価の上昇によって、民衆によるええじゃないかや、世直し一揆が多発。大混乱を極めます。
明治新政府は、新政府のこれからの方針と併せて、国民に対して決まり事を提示し、守るように意識を持ってもらう必要があったのです。
②戊辰戦争中のため、必ずしも全国に行き渡っていなかった
この戊辰戦争が開戦したのも、実は1868年で戦火の中。
そのため、奥羽列藩同盟をはじめとした反新政府勢力の息がかかった地域には発布されていなかったことも特徴です。
③五榜の掲示の内容
では、続いて五榜の掲示の内容を簡単に説明していきます。
1.五輪の道徳を守る
五輪とは、君主、父子、長幼、夫婦、朋友のことを指します。そう、儒教(=儒学)の考えです。
人を殺したり、物を奪い取るのはいけないということや、父や君主を大切にしなさいという儒教の教えが記載されています。
2.組織を作って政府に反抗したり、犯罪をしてはいけない
当然じゃん!と思いがちですよね。
前述の通り、当時は民衆も一揆などを起こしていました。
そこで、これ以上の混乱を避けるため、五榜の掲示で組織を組んでの抗議活動を禁じ、それを通報した人には褒美を授けるという処置をとっていました。
3.キリスト教の禁止
江戸時代からキリスト教の禁止は進んでいましたが、明治新政府下でもそれは変わらず。
キリスト教を信仰している人を見つけた場合は、政府に報告するとご褒美をもらえました。
3-1. 欧米諸国からのブーイングにより廃止された
しかし欧米諸国からは、「今時キリスト教を信仰してないなんて、日本遅れてる」と揶揄されます。
当然ながら、欧米諸国はキリスト教をすごく信仰しています。
欧米諸国に追いつきたい新政府は最終的に、この項目を廃止し、1893年にはキリスト教を自由に信仰出来るように法整備をします。
4.攘夷運動をやめて国際的に守られているルールを日本も守ろう
攘夷運動と言うのは、江戸時代まで続いていた『天皇を大切にして、夷人(=外国人)を追放しよう』という考えのことです。
元々、明治新政府の立役者であった長州藩は、この運動に力を入れていました。
しかし、時代は変わりました。
欧米諸国のことを受け入れ、学ばないと、日本の近代化は成し得ないと考え、これを打ち立てました。
5.犯罪をした人の逃亡を禁止
当然と言えば当然のこと。
しかし江戸時代では、これ以外にも勝手に自分の住んでいるところから逃げたり、勝手に住むとこを変えることを禁じています。
これをそのまま踏襲しています。
④国内が安定するまで掲示されていた
この五榜の掲示は、戊辰戦争が集結し、民衆の暴動や抗議活動が収まってきた1873年になると、内容のほとんどが廃止となりました。
最後までしぶとく残ったのは、キリスト教に関しての項目3でしたが、前述の通り1893年に廃止されます。
まとめ
✔ 発布した人とその目的が違い、五箇条の御誓文は、明治天皇が神々対し政府の方針を誓った文章で、五榜の掲示は明治政府が発表した決まりごと。
✔ 記載の内容も違い、五箇条の御誓文は明治政府の政策を基にしているが、五榜の掲示は、国民が守るべき5つの決まり事が書かれている。
✔ 五箇条の御誓文も五榜の掲示も1868年発布だが、五榜の掲示は五箇条の御誓文発布の翌日に発表。
✔ 五箇条の御誓文は、国民および諸外国に対してのアピールで、五榜の掲示は国民に対してのアピール。
✔ 五箇条の御誓文は廃止・撤回がないが、五榜の掲示は1893年で全て廃止。