
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な文言で始まる、福沢諭吉の『学問のすすめ』は、明治時代のベストセラーの一つです。
今回は、『学問のすすめ』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
学問のすすめとは?
(初版1872年「学問のすすめ」 出典:Wikipedia)
学問のすすめとは、明治の啓蒙思想家・福沢諭吉が1872~76年にかけて書いた、啓蒙を主題とした論文集です。
各論文の内容は雑多ですが、全体を貫くテーマは明確で、従来の封建的な道徳を厳しく批判し、西洋的な合理主義と自由主義を称揚しているのが特徴です。
学問のすすめは、当時全17編で合わせて340万部の発行部数を誇るベストセラーとなり、後の時代には教科書にも採り入れられ、明治時代から現在に至るまで、多くの人々に読み継がれてきました。
著者「福沢諭吉」の略歴
(福沢諭吉 出典:Wikipedia)
学問のすすめの著者である福沢諭吉は、明治の啓蒙思想家・教育家の一人で、慶應義塾(現・慶応義塾大学)の創設者でもあります。
1834年に豊前国中津藩(現・大分県中津市)の藩士・福沢百助の次男として生まれます。
そのころ、百助は大坂蔵屋敷の廻米方(米の流通を監督する役人)でした。
ところが、諭吉が3歳のころに百助が亡くなったため、諭吉は中津に戻り、不遇な少年時代を過ごしました。
(福沢諭吉旧居 出典:Wikipedia)
しかし、学問への志は強く、1854年長崎に出て蘭学を学び、翌1855年には大坂の蘭学者・医師であった緒方洪庵の私塾で蘭学を学び始めています。
そして、1858年には中津藩の命により、江戸の中津藩下屋敷に蘭学塾を開きました。このころには、諭吉自身が独力で英語を学び始めています。
その後、幕府の使節に随行して、1860~67年の間に3回渡欧します。
(福澤諭吉とアメリカの少女 出典:Wikipedia)
そこで仕入れた最新の西洋の情報を報告した『西洋事情』を刊行したところ、ベストセラーになりました。
3度の渡欧から帰国した諭吉は、1868年に蘭学塾を芝に移して、これを慶應義塾と命名します。(※これが現在の慶應義塾大学の前身です)
慶應義塾では、当時あった「士農工商(武士・商人・職人・農民)」といった身分の差に関係なく、洋学を学びたい者を受け入れました。
さらに、1872~76年に『学問のすすめ』を刊行したのに加えて、1873年に明六社の設立に加わるなど、啓蒙活動をさかんに行うようになっていきます。
ちなみに、明六社が刊行した『明六雑誌』には、諭吉の論文が3本載っています。
1875年に刊行した『文明論之概略』では、日本の文明が停滞している元凶が権力の偏重にあることを指摘した上で、西洋文明と自由に交流し競争することが日本を文明国にすると説きました。
(文明論之概略 出典:Wikipedia)
晩年の1885年に刊行された『脱亜論』では、富国強兵政策への支持が見られます。
その後、諭吉は1901年に脳溢血で死去しました。
(1901年の福沢諭吉 出典:Wikipedia)
学問のすすめの内容
①学問のすすめの構成
学問のすすめは全17編の論文から構成されています。各論文の見出しは次のようになっています。
初編
二編 人は同等なること
三編 国は同等なること/一身独立して一国独立すること
四編 学者の職分を論ず/付録
五編 明治七年一月一日の詞
六編 国法の貴きを論ず
七編 国民の職分を論ず
八編 わが心をもって他人の身を制すべからず
九編 学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文
十編 前編のつづき、中津の旧友に贈る
十一編 名分をもって偽君子を生ずるの論
十二編 演説の法を勧むるの説/人の品行は高尚ならざるべからざるの論
十三編 怨望の人間に害あるを論ず
十四編 心事の棚卸し/世話の字の義
十五編 事物を疑いて取捨を断ずること
十六編 手近く独立を守ること/心事と働きと相当すべきの論
十七編 人望論
引用:WIkipedia
見出しを見れば分かるように、各論文は雑多な内容を扱っており、全体が体系的になっているわけではありません。
②学問のすすめのテーマ
しかし、全体を貫くテーマは明確です。
従来の封建的な道徳に対する批判と、西洋的な合理主義・自由主義の称揚が見られます。
従来のような封建主義の下では、人々は権力者にすべてを委ね、自ら思考することがなくなってしまう。
明治になった今こそ、人々は封建主義から離れて、合理主義と自由主義の下で、自ら思考して実学を修めることが求められる。このように福沢は説いています。
③学問のすすめにおける実学重視
学問のすすめの特徴の一つは、極端な実学重視です。
これまで儒学者や漢学者が修めてきた学問は「実なき学問」とされ、「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」と言うように、何よりもまず実学を学ぶことを勧めています。
では、「実学」とは具体的に何なのでしょうか?
福沢が例に挙げるのは、いろは47文字(ひらがな)、手紙の書き方、帳簿計算の仕方、そろばんの稽古、てんびんの取り扱い方です。つまり、町人が日常的に使う基本的な技術はすべて「実学」に含まれます。
そして、それを習得した後には、今度はより高度な実学として、地理学、究理学(物理学)、歴史、経済学、修身学を学ぶことを勧めています。これらは西洋の学問をモデルに列挙されています。
明治時代の初めには、『明六雑誌』などに顕著なように、伝統的な儒学や漢学を「虚学」(中身のない学問)として退け、西洋的な学問を「実学」として称揚するという傾向が広く見られましたが、『学問のすすめ』もその流れの中にあると言えます。
学問のすすめの冒頭部分「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の本当の意味
(慶應大学に刻まれているラテン語の文言 出典:Wikipedia)
学問のすすめの中で最も有名な個所は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という文言で始まる初編の冒頭部分でしょう。
この文言は、アメリカ独立宣言の一節をパラフレーズしたものとして知られています。
ですが、学問のすすめでは、平等主義にポイントがあるわけではありません。
学問のすすめの冒頭部分を簡単に言い直せば、こうなります。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言う。それならば、人間はみな生まれながらに平等であって、能力、財産、身分の差はないはずである。ところが、現実には賢い人もいれば、愚かな人もいる。貧しい人もいれば、裕福な人もいる。貴族もいれば、下人もいる。この差はいったい何なのだろうか。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な文言は、このような問いかけの初めに置かれています。
つまり、これは人間の平等を謳うための文言ではなく、人間の不平等の原因を問いかけるための文言なのです。
では、この不平等の原因は何なのでしょうか?
福沢の答えは簡潔です。「学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」。つまり、学問を学んだかどうかで決まると言うのです。
さらに、その学ぶべき学問とは何かということで、先ほども触れたように「実学」が重要視されます。
要するに、学問のすすめは、人々が実学を修めることによって、現実における人間の不平等を是正して、本来あるはずの平等な社会に近づけていくことを求めているのです。
まとめ
✔ 学問のすすめとは、明治の啓蒙思想家・福沢諭吉が書いた論文集のこと。
✔ 学問のすすめは、全17編の論文から構成されている。
✔ 各論文の内容は雑多だが、全体を通して、従来の封建的な道徳を厳しく批判し、西洋的な合理主義と自由主義を称揚している。
✔ 具体的には、人々が実学を修めることによって、本来あるはずの平等な社会を実現していくことを説いている。
✔ 刊行直後からベストセラーとなり、後の時代には教科書にも採り入れられ、明治時代から現在に至るまで、多くの人々に読み継がれてきた。