【朝貢貿易と勘合貿易と日明貿易の違い】簡単にわかりやすく解説!!それぞれの意味など

 

日本史を勉強していると◯◯貿易という言葉をよく見かけます。

 

特に室町時代は貿易の名称が多く、「朝貢貿易」「勘合貿易」「日明貿易」と色々な名前が出てきます。

 

今回はこの3つの貿易の違いについて詳しく解説していきます。

 

朝貢貿易と勘合貿易と日明貿易の違い

  

分かりやすく言うと、・・・

 

✔ 朝貢貿易(ちょうこう)・・・貿易の考え方(中華思想に基づいた貿易の考え方)

✔ 勘合貿易(かんごう)・・・貿易手段(勘合符という手段を用いた貿易)

✔ 日明貿易(にちみん)・・・日本との貿易相手が明である事

 

 を指します。

 

朝貢貿易は古代中国に対して日本が行っていましたが、日本史の問題等では足利義満の行った勘合貿易の事を指す事が一番多いです。

 

勘合貿易は室町幕府と中国の皇帝の間で行われていた貿易手段で、当時の貿易相手は明です。清の時代まで中国の皇帝との貿易は朝貢という考え方で行われていました。

 

ですので、勘合貿易と言う言葉を用いる場合は勘合貿易=朝貢貿易=日明貿易となり、同じ意味となります

 

しかし、日明貿易という言葉を用いる場合は必ずしも朝貢貿易や勘合貿易とイコールにならない場合があるのです。室町自体の貿易の流れが分かれば理解しやすいと思います。

 

それではそれぞれの貿易の説明を行っていきます。

 

朝貢貿易について詳しく解説!

朝貢貿易とは

中国の歴代王朝は東アジアの大国として長年君臨していました。

 

彼らは自分達が世界の中心であり、自分達の文明こそが最も進んでいると考えていました。この思想を中華思想と呼びます。

 

中国で最も割合の多いのは漢民族です。

 

漢民族にとって中華は世界の中心の国であり、周辺地域は野蛮国でしかありません。

 

その為、周辺地域の人たちを教化していく必要があると考えています。その教化を受ける為、周辺国の君主が貢物を捧げに来ます。

 

そして皇帝側は周辺国の君主を認める事で恩賜を与えます。一連のやりとりを朝貢と呼びます。

 

思想はどうであれ、物と物を交換していますので、これは貿易になります。

 

そしてこのやり取りの事を朝貢貿易と呼びます。

 

(※ちなみに中国が周辺国の王を任命することを冊封と呼びます。朝貢は王である事を認めるだけなので、意味合いは異なります)

 

ちなみに周辺国は蔑称で東夷、北狄、西戎、南蛮と呼ばれます。

 

南蛮人、倭人等の言葉は中国から伝来した言葉であり、中国からすると良い響きの言葉ではありません。

 

日本と朝貢貿易

日本と朝貢の歴史ですが、卑弥呼や倭の五王が朝貢しています。

 

この頃は魏や南宋から王と任命されており、日本は中国の冊封体制に組み込まれています。

 

隋〜唐の時代には日本は中国の冊封体制に組み込まれるのを嫌い、朝貢も行わなくなります。聖徳太子が小野妹子に渡した手紙が有名ですね。

 

その後有名なところでは平清盛は宋と貿易を行なっていますが、皇帝との朝貢関係ではなく私貿易なので、朝貢貿易ではありません。

 

室町時代の足利義満の時代になると朝貢貿易が復活します。

日本の歴史上、朝貢貿易を行なっていたのは古代と室町時代の一部となります。

 

卑弥呼や倭の五王は王に任命される為に朝貢していたので、貿易をしていた認識があるのかは分かりませんが・・・。

 

 

勘合貿易について詳しく解説!

勘合貿易とは

勘合貿易は1404年〜1549年の期間に19回行われています。

 

中国が明時代の貿易なので、日明貿易とも呼ばれます。

 

日本史のテストでは日明貿易だとほぼ勘合貿易の事を指していると思って良いですが、文脈に義満や勘合等のキーワードがあるか、そして時代がこの間に含まれるか、一応チェックはしておきましょう。

 

当時の日本と明の海洋通路は倭寇が暴れていました。

 

貿易相手が正式な相手であるか証明する為に勘合符が使われています。

 

勘合符とは木の札に字を書き、中央で二つ割りにしたもので、両者が片方を所有し、照合の際に合わされば本物と言う事になります。

 

日本と勘合貿易

1368年に明が建国。朱元璋は周辺諸国に朝貢と冊封を求めます。

 

ちなみに明の前の国だった元も日本に朝貢を求めていますが、北条家は使者を殺害。これが元寇の原因になっています。

 

(※元の時代も私貿易は盛んであり、日元貿易と呼ばれています)

 

1401年に足利義満は遣明使を派遣。永楽帝と朝貢関係を結びます。

 

1404年から勘合符を使用した勘合貿易(朝貢貿易でもあり、日明貿易でもある)が始まります。

 

ちなみに公に認められた商人による公貿易や私貿易も同時に行われています。

 

足利義満は勘合貿易を行う際、永楽帝から日本国王と冊封を受けています。この期間の日本は明の冊封体制に組み込まれていました。

 

ちなみに天皇は皇帝と同じ字が使われており、対等な立場になります。

 

その為、朝貢とはならず、勘合貿易に朝廷は関わっていません。義満は日本国王と名乗り貿易を行います。

 

当時の朝廷や幕臣も冊封体制に組み込まれる事に不満を持つ者は多かったのですが、義満は実利を取ったのです。

 

勘合貿易の利益もあり、室町幕府は義満の時代に最盛期を迎えます。

 

その後も勘合貿易は続きますが、4代義持は勘合貿易を中止させたり、6代将軍義教が復活させたりと、中止と再開を繰り返します。

 

幕府の実権がなくなると、大内氏や細川氏が勘合貿易を行いますが、1549年の貿易を最後に勘合貿易は終了します。

 

 

日明貿易について詳しく解説!

(明と周辺諸国 出典:Wikipedia

①日明貿易とは

名前の通り、日本と明が貿易をしている事を指します。

 

明は1368年〜1644年の間続いており、その期間に行われた貿易は一応日明貿易となります。

 

勘合貿易以外での日明貿易

明の初代皇帝朱元璋は形骸化していた冊封体制を復活させようと、1372民間での貿易や中国人の海外渡航を禁止する海禁令を出します。

 

3代将軍義満が勘合貿易を始めたのは前述した通り1404年です。

 

義満が明との貿易に目をつけたのは、博多商人が莫大な利益を上げている事を知ったからです。

 

つまり、この期間は海禁令が出されているにも関わらず貿易が行われている事になりますね。

 

これは密貿易と呼ばれ、法律を犯して行なっているもので、私貿易とは区別されます。

 

密貿易は皇帝との関わりは当然ありません。その為、日明貿易ではありますが、勘合貿易や朝貢貿易ではありません。

 

勘合貿易の期間も密貿易は行われていましたし、義持が勘合貿易を中止した期間も密貿易は行われています。

 

勘合貿易終了後の1567年には海禁令は緩和され、その後私貿易として、貿易は盛んに行われます。

 

これらもすべて広い意味では日明貿易となります。

 

 

まとめ

 朝貢貿易は中華思想に基づいた貿易の考え方。

 朝貢貿易は古代と室町時代の特定期間に行なわれた。 

 勘合貿易は勘合符という手段を用いた貿易。

 勘合貿易は朝貢貿易でもあり日明貿易でもある。

 日明貿易は日本と明が行った貿易。

 日明貿易は勘合貿易の事を指す事が多いが、私貿易や密貿易も含まれる。