明治政府は帝国議会を開き、日本でも議会政治が始まります。
その第二回帝国議会で衆議院を解散させることになった『蛮勇演説』について、今回はわかりやすく解説していきます。
目次
蛮勇演説とは?
1890年に第一回帝国議会が開かれます。その翌年の1891年12月の第二回帝国議会で海軍大臣の樺山資紀が行った演説のことを、蛮勇演説と言います。
この演説で、樺山資紀は当時非難されていた薩長藩閥政治を擁護し、自由党や立憲改進党など民党を強く批判しました。
その演説内容は、民党側から強い反発を招いて、時の第一次松方内閣は、衆議院を解散せざるをえなくなりました。
蛮勇演説が行われた背景
こうした演説が行われた政治的背景は、どのようなものだったのでしょうか?
①第一回帝国議会 第一次山縣内閣
1890年に始まった帝国議会ですが、それは人権を求める自由民権運動の一定の成果でした。第一回帝国議会では、山縣有朋が内閣総理大臣を務めます。
(山縣有朋 出典:Wikipedia)
そこでは、第一回衆議院議員総選挙も行われ、自由民権運動を進めてきた立憲自由党や立憲改進党など民党と言われる政党が171もの議席を占めます。
一方、政府よりの吏党と呼ばれる政党は、84議席でした。
いかに、自由民権運動の勢いがすごかったかが、この議席数だけでもよくわかります。帝国議会はこの衆議院と貴族院からなっており、貴族院の議員は主に皇族や華族などで構成されていました。
②藩閥政治とは
樺山資紀が擁護した藩閥政治とは、江戸から明治に変わる時期に明治政府成立に大きく関わった旧藩、特に薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥後藩出身の者が内閣や政府の主要な地位を占めたことを批判して呼ばれた言葉です。
明治天皇を中心とした国家体制を作るにあたって、天皇の相談役などで参内した者には、明治維新の立役者とも言われる大久保利通(薩摩藩)、西郷隆盛(薩摩藩)、木戸孝充(長州藩)でした。
その後、議会が設置されると、内閣総理大臣を務めたのは伊藤博文(長州藩)、黒田清隆(薩摩藩)、山縣有朋(長州藩)など薩摩藩と長州藩出身者でした。自由民権運動は、こうした藩閥政治への反対運動でもあったのです。
③第二回帝国議会
第一回帝国議会は、内閣側と民党側が政府の予算案を巡って対立しました。
民党側は経費削減を主張していましたが、自由党内の旧土佐藩出身の土佐派が政府側から買収されたこともあり、政府予算案賛成にまわったことで、議会は解散せずに1891年3月に閉会を迎えました。
第二回帝国議会は、薩摩藩出身の松方正義によって組閣されました。閣僚は、薩摩藩と長州藩が半分以下だったことから、民党側の激しい政府批判を浴びます。
(松方正義 出典:Wikipedia)
ここでも予算案を巡って激しい論戦となります。特に、海軍費が前年度に比べて650万円増となっており、民党側が引き続き経費削減を主張します。
蛮勇演説の内容
議会で激しい批判に会った予算案、特に海軍費について時の海軍大臣樺山資紀が民党側に応える形で演説をします。その内容とはどのようなものだったのでしょうか?
①蛮勇演説の内容と問題点
民党側から出された予算改定案は、海軍費を800万円減らしたものだったため、海軍大臣である樺山資紀は怒りを爆発させます。
1891年12月22日の会議で以下のように演説を行います。
(前半、いかに海軍が国の発展に貢献してきたかを主張。)海軍のみならず、今の政府もである。多くの困難を切り抜けて今日の国をつくった政府である。薩長政府とか何政府とか言っても、国の安定を保ち、安全を保ったのは誰のおかげか。
要するに、今の日本をつくったのは薩長政治のおかげなのだから、黙って言うことを聞けというような内容の演説をしたのです。
②樺山資紀はどんな人なのか?
(樺山資紀 出典:Wikipedia)
樺山資紀の演説が行われると、「海軍大臣退場せよ」「帝国議会を何と思う」「無礼千万」などと叫ぶものが出て議会が騒然となります。
樺山資紀は、第一次山縣内閣と第一次松方内閣で海軍大臣を務めました。薩摩藩出身で、西南戦争では熊本鎮台司令長官のもと、熊本城を守るために戦いました。常に、明治政府の側について働いていた人でした。
それが、今回の蛮勇演説の内容となったのですが、それは人権を求めて設置された議会をないがしろにして、圧力で政治を押し進めるという姿勢を大臣が示したものでした。
蛮勇演説のその後
この蛮勇演説が行われた後、議会の混乱を招き、民党側の政府批判を強めていきます。
①第一次松方内閣は弱体
結局、政府側が提出した予算案は、民党側の改正案が衆議院で可決されました。このため、第一次松方内閣は初めての衆議院解散を行います。
松方内閣は、組閣時から弱体の内閣でした。組閣後すぐの1891年5月11日に大津事件が起こります。
大津事件とは、日本を訪問していたロシア帝国の皇太子ニコライが、警備に当たっていた警察官に斬りつけられた暗殺未遂事件です。
その責任を取って、外務大臣、内務大臣、司法大臣が辞表を提出することになり、結局、薩長出身の閣僚が半数以下になってしまいました。いつ倒れてもおかしくない内閣だったのです。
②衆議院解散後の選挙
衆議院解散に伴い、1892年2月に第二回衆議院議員総選挙が行われました。
選挙結果は、民党側が議席数を減らしましたが132議席で全体の4割を占めました。その他、政府側の吏党が124議席を獲得しました。
しかし、吏党と言っても、政府に近いというより反民党のグループというだけで、国粋主義者からリベラルまで幅広い考えを持つものの集まりでした。
伊藤博文は民党側の議席に対抗するため、反民党のグループで新しい政党を作ろうとしましたが、明治天皇や山縣有朋、松方首相などの反対にあって、新党結成を諦めます。
③選挙干渉と内閣総辞職
実は、この第二回衆議院議員選挙は、内務省の選挙干渉という大きな問題を起こしました。選挙干渉により、全国で死者25名、負傷者302名を出すほどの惨事だったのです。
内務省から政府系候補者に対する票の取りまとめを依頼する通達が、各府県知事に出されました。それとともに、各地の政府系支持者と民党支持者の対立が選挙前からあり、そこに警察が介入したことが事態をひどくする原因でした。
警察力の介入に政府の指示があったかどうかは、証拠が残っていないので不明ですが、この選挙干渉のために、内務大臣の交代が続き、さらには蛮勇演説をした樺山海軍大臣も辞任を出します。
すでに、弱体であった第一次松方内閣ですが、松方首相は閣僚をまとめることができずに、内閣総辞職に追い込まれたのです。
まとめ
・蛮勇演説とは、1891年12月に樺山資紀海軍大臣が行った演説のことである。
・演説の内容は、薩長が支配する藩閥政治を擁護するものであった。
・蛮勇演説は、民党側の強い政府批判を招く。
・第一次松方内閣は、衆議院を解散せざるをえなくなった。
・衆議院解散後の選挙で、政府側と警察の選挙干渉により、死者と負傷者を出す。
・選挙干渉は、第一次松方内閣の総辞職を招くことになった。