失言って本当に怖いですね。最近では大臣が言葉を間違えたせいで問題が取り沙汰になったこともありますしね。
でも、そんな失言によって引き起こされた事件といえば平安時代にも実は存在していたのです。
今回はそんな失言によって起こった事件「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」についてわかりやすく解説していきます。
目次
阿衡の紛議とは?
阿衡の紛議とは、平安時代前期の887年に藤原基経と宇多天皇の間で起こった騒動のことです。
この事件によって藤原基経は天皇よりも権力があることを日本中に知らしめることになり、のちの摂関政治のはしりとも言える事件でもありました。
阿衡の紛議が起こった背景と原因
(藤原北家一族の始まりとなる藤原不比等 出典:Wikipedia)
①快進撃が始まる藤原北家
阿衡の紛議が起こる少し前、朝廷では藤原北家がどんどん躍進を果たしていました。
藤原北家という一族は元々藤原不比等(ふじわらのふひと)から始まった一族であり、薬子の変以降朝廷のナンバー1の一族として朝廷内で活躍していくことになります。
そして今回の主人公である基経の養父であった藤原良房の代には天皇を擁立し、人臣では史上初である太政大臣に就任。
さらには応天門の変を起こし藤原氏のライバルであった大伴氏と紀氏を失脚に追い込んでさらに天皇の補佐をする役職である摂政に就任。
もはや藤原北家の勢いを止められる勢力はどこにもいなかったのです。
②藤原基経の大暴れ
(藤原基経 出典:Wikipedia)
応天門の変以降勢力を確立させた藤原北家でしたが、時代が藤原良房の養子である藤原基経の時代に入るとその動きはさらに加速していきます。
基経は暴虐で知られていた陽成天皇を排除。
次の天皇に基経と関係の深い光孝天皇を即位させて自身は太政大臣に就任しました。
さらに基経は光孝天皇が亡くなる直前になると元々臣籍降下(皇族から離れた人)をしていた源定省を無理矢理、皇族に復帰させて宇多天皇として即位させます。
(宇多天皇 出典:Wikipedia)
こうして基経は天皇を簡単に変えることができるとんでもない権力をもってしまったのでした。
阿衡の紛議の流れ【事件の内容】
①基経の阿衡への就任
こうして朝廷のトップを立った基経でしたが、このことを受けて宇多天皇は基経に関白の位を与えることにします。
ちなみに、この時は関白の位に立つには一回「私かそんな偉い役職をするなんてもったいないですよー」みたいな感じで断らなければなりません。
それを天皇が「いやいや!あなたじゃなければ意味がありませんよ!」のような詔勅を出してようやく就任するとされていました。
しかし、その天皇が出す詔勅に問題があったのです。
宇多天皇は基経に対して関白に就任させようとしますが、その詔勅の中に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」として基経を阿衡の位に就任させようとしたのでした。
②阿衡はどんな役職?
さてさて阿衡というなんか変わった役職が登場しましたが・・・
この役職というのは古代中国の夏王朝の時代に伊尹という賢い人が、この阿衡について皇帝をサポートしたという逸話が元となっており、この場合では、「阿衡みたいに関白として天皇をサポートして欲しい!」みたいな意味があったのです。
その一方で阿衡という役職は簡単に言えば名誉職。実際の役割は少ないという事もあったのです。
③基経がついに激怒
基経は関白就任の詔勅を見て「もう〜ここまで言われたらしょうがないなぁ〜」みたいな感じだったと思いますが、学者である藤原佐世が「阿衡は位貴くも職掌なし(阿衡って地位は高いけど名誉職だから職務を持たない役職です)」とこの阿衡とはどんな役職なのかを伝えると基経の気持ちはガラリと変わります。
上にも書いた通り阿衡には名誉職という意味合いも強く、別の視点から見たら「基経にはええ位を与えるけど政治には参加するなよ」とも受け取る事もできます。
これを受けて基経は大激怒。全ての仕事をボイコットしてしまいました。
④頑張って宇多天皇! 阿衡の紛議の鎮め方
こうして基経は仕事を放棄するようになりましたが、天皇だったら「仕事をボイコットするような奴は流罪だ!」とも言えるはずですが、基経が仕事をしなくなってせいで朝廷では大混乱してしまいます。
それもそのはず、基経は朝廷の全ての仕事を担当しており、この頃になると基経がいるから朝廷は成り立っているといってもおかしくなかったのですから。
宇多天皇は困ります。なんとかして基経の怒りを鎮めて朝廷に復帰してもらわなくてはいけません。
そこで宇多天皇は左大臣であり基経の次に偉かった嵯峨源氏出身の源融に命じて阿衡って果たして名誉職だったのか?ということを博士に調べるよう命じます。
(源融 出典:Wikipedia)
しかし、基経から「変な報告したらどうなるかわかるな?」と脅された博士たちは阿衡とは名誉職という判断に至ってしまい、宇多天皇は仕方なくこの詔勅を出した橘広相を罷免(クビ)にしてしまいました。
(橘広相 出典:Wikipedia)
⑤菅原道真の登場
こうして詔勅は無効となりましたが、基経はこれだけやっても怒りを収めることはせず、挙げ句の果てには「橘広相を流罪にしろ!」と求めるようになります。
宇多天皇としてもこれ以上無実の人に罪をかけるのは流石にためらいます。
そんな時に現れたのが讃岐守(今の香川県知事みたいな役職)であった菅原道真でした。
(菅原道真 出典:Wikipedia)
菅原道真は大変賢い人物であり、基経に対して「これ以上いざこざが起こると宇多天皇が怒って藤原北家の為になりませんよ」という手紙を送ります。
基経としてもせっかく軌道に乗った藤原北家の勢いを失速させたくはありませんのでここは譲歩という形で怒りを収めたのでした。
なぜ基経はこんなに激怒したのか?
こうして終結した阿衡の紛議でしたが、基経はどうして阿衡だけでこんなに怒ったのでしょうか?
たしかに、馬鹿にされたと思ったという一面はありましたが、その裏には橘氏と藤原氏の勢力争いがあったのでした。
日本では源平藤橘と呼ばれるように藤原氏と並んで源氏と平氏と橘氏が大変強い勢力を持っていました。
橘氏という家は一番馴染みが薄い家なのですが、奈良時代の時には橘氏は橘諸兄中心に強い勢力を持っており、さらに橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇の妃になると天皇の外戚として橘氏公が右大臣に昇進するほどの権力を保持しました。
これを基経が警戒していたのではないかと私は思っており、基経は阿衡という言葉が書いてあったことにこじつけて橘氏の勢力を削ぎ落とそうとしたという藤原氏の思惑があったのだと思います。
阿衡の紛議の意義
①天皇よりも藤原北家
阿衡の紛議以降朝廷内では『基経がいないと朝廷が成り立たない』というイメージが確立されてしまい、天皇よりも基経率いる藤原北家の方が権力があると言う本来とはあべこべな状態に陥ってしまいました。
このイメージはその約150年後に藤原北家とはあまり関係のない後三条天皇が即位するまで持たれることになるのでした。
②宇多天皇の藤原排斥
阿衡の紛議以降あまりパッとしない宇多天皇でしたが、彼からしたら「基経ふざけんじゃねーぞ!」のような心境だったと思いますね。
そのため宇多天皇はこれ以降、藤原北家を完全に排斥はしないものの、嵯峨源氏や菅原道真と言った藤原氏ではない人物を多用していき、藤原氏の勢力を削ぎ落とそうとしたのです。
しかし、それを藤原北家は許すはずはなく、時代は基経の息子である藤原時平と菅原道真の対立へと変わっていくのでした。
まとめ
✔ 阿衡の紛議とは宇多天皇と藤原基経の間で起きた政治的紛争のこと。
✔ 宇多天皇は藤原基経に関白の就任の勅書を贈ったが、その中に阿衡という名誉職の意味が書かれていたため基経は激怒した。
✔ 基経は激怒して以降政務を放ったらかしにしたが、菅原道真の説得でようやく怒りを収めた。
✔ この阿衡の紛議のお陰でこれから日本ではしばらくの間天皇よりも藤原氏の方が権力があると思われるようになった。