【摂政と関白の違い】簡単にわかりやすく解説!!どっちが偉い?それぞれの特徴について

 

摂政・関白と聞くと、みなさんはどのようなイメージを持つでしょうか?

 

例えば、摂政と聞くと、聖徳太子が推古天皇の摂政として活躍されたのは思い浮かぶ方もいるのではないでしょうか?

 

一方で、関白と聞くと、豊臣秀吉が関白に就任したことをご存知の方もいるのではないかと思います。

 

ですが、この聖徳太子や豊臣秀吉のように地位の高い者、あるいは登りつめた者が就任した摂政と関白について、それぞれ具体的にどういった特徴があるのか?また、どのような違いがありどっちが偉いのか?うまく説明できない方もいるかと思います。

 

そこで今回は、摂政と関白について、その違いと特徴について簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

摂政と関白の違いは?どっちが偉い?

 

まずは、摂政と関白の違いを見ていきましょう!

 

✔ 摂政

幼少の天皇の権限を代行し、女帝を補佐する役職のこと

 

✔ 関白

成人した天皇を補佐する役職のこと

 

摂政・関白は、どちらも律令に規定された役職ではない「令外官」でした。

 

律令制における官位の最高位は太政大臣ですが、これは名誉職であったため、令外官として天皇に次ぐ権限を持ち、政治を主導する役職として、摂政・関白の職が設けられました。

 

平安時代以降、天皇の外戚たる藤原家(北家)の者が摂政・関白に就くのが常態化しました。

 

関白は、外戚の立場を利用し、政治した天皇を補佐する役職ですが、血縁関係が薄いといったときには、天皇が関白の意見を聞き入れないなど、大きな影響力を行使できないときもありました。

 

一方で、摂政は天皇が未成年の時に置かれたため、天皇の権限を代行する大きな権力を有しました。

 

従いまして、どちらが偉いのか?と聞かれると、どちらも天皇に次ぐ人臣としては最高の職ではありますが、摂政が天皇の権限を代行する点から言えば、摂政の方が偉いとも言えるでしょう。

 

摂政についてわかりやすく解説!

 

摂政とは、女帝を補佐し、幼少の天皇についてはその権限を代行するために設置された役職のことを言います。

 

摂政の始まり

摂政の始まりは593年に推古天皇の摂政として、聖徳太子が就任したことに始まります。

 

推古天皇は日本史上初の女性天皇で、本来なら男系皇統で皇位継承が行われるのに対し、当時の政治情勢等から中継ぎとして天皇に即位しました。

 

聖徳太子は摂政として、この推古天皇の政治を補佐しています。

 

藤原家の摂政就任

聖徳太子以降も、何人かの皇族が摂政に就任しています。

 

しかしながら、701年の大宝律令制定以降、律令においては、摂政の役職は規定されませんでした(こうした律令に規定のない役職は令外官と呼ばれます)。

 

 

こうした中、平安時代の866年、清和天皇を補佐するため、天皇の外戚である藤原良房が皇族以外の臣下としてはじめて摂政に就任しました。

 

藤原良房の先祖は、中大兄皇子とともに大化の改新を成し遂げた、中臣鎌足です。

 

 

良房の系統の藤原家は藤原北家と呼ばれ、藤氏長者として、藤原家の中心となり、以降、藤原北家の者が摂政に就く例となりました。

 

ちなみに、良房が摂政に就任したとき、清和天皇は既に成人していました。

 

良房は当時、名誉職である太政大臣に任ぜられ天皇の後見に務めていましたが、政務を指揮するため、摂政の職が与えられたと考えられています。

 

幼少の天皇には摂政が設置される例となったのは、朱雀天皇の時代に摂政に就任した藤原忠平が初とされています。

 

藤原北家は天皇の外戚の立場を利用し、摂政に就任して朝廷を実質的に主導する存在となり、平安時代後期の藤原道長の時代にはその最盛期を迎えます。

 

また、以下で述べるように藤原北家は関白にも代々就任し、摂関家と呼ばれ、絶大な権勢を誇りました。

 

現代の摂政

日本国憲法や皇室典範において、摂政の制度が規定されています。

 

日本国憲法では、摂政は天皇の名の下で国事行為を行う職を指します。

 

摂政が行う国事行為の権限は、天皇と同じです。

 

摂政は、天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時に置かれます。

 

ちなみに、日本国憲法の下で摂政が置かれた例はまだありません。

 

 

関白についてわかりやすく解説!

 

関白とは、成人した天皇を補佐するために置かれた役職です。

 

関白の始まり、藤原家の関白就任

関白は上で述べた藤原良房の養嗣子である、藤原基経が就任したのがその始まりとされています。

 

基経は清和天皇以降、4代の天皇に関白として仕え、大きな権力を有しました。

 

ちなみに、成人後の天皇には摂政でなく、関白が設けられるという慣例が確立したのは基経の時代の後で、朱雀天皇の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初めての例とされています。

 

上の摂政で述べたように基経の系統の藤原北家は、天皇に対し外戚政策を展開し、代々摂政・関白に就き、絶大な権力を誇りました。

 

平安時代後期、藤原道長の時代に摂関家たる藤原家の最盛期を迎えました。

 

しかし、その後藤原摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し、天皇親政を開始するなど、平安時代末期にはその影響力が弱まることになります。

 

豊臣秀吉の関白就任

戦国時代、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は藤原摂関家の一つ近衛家の猶子となり、武家として初めて関白に任命されました。

 

摂政・関白の役職は平安時代以降、藤原家の者が就任する慣例となっており、そのため秀吉はわざわざ近衛家の猶子となっているのです。

 

その後、秀吉は朝廷より豊臣の姓を与えられ太政大臣にも就任するなど、朝廷の最高職に就くことで、朝廷の権威を背景に豊臣政権による全国支配を確立させました。

 

その後の関白

摂政は日本国憲法下においても、上で述べたようにその制度が定められていますが、関白については現在、定められておりません。

 

関白は明治維新の際の王政復古の大号令に伴い、廃止されました。

 

 

まとめ

 摂政と関白の違いは、摂政が幼少の天皇の権限を代行し、女帝を補佐した役職であるのに対し、関白は、成人した天皇の補佐をする役職を指す。

 天皇の権限を代行する意味で、摂政の方がより大きな権力を持ち、関白より偉いとも言える。

 藤原家による摂政は、866年に清和天皇の時代に藤原良房が就任、関白は良房の養嗣子である基経が清和天皇の時代に初めて就任した。

 良房・基経の系統の藤原北家が代々、天皇の外戚として、摂政・関白に就くのが慣例となり、藤原道長の時代に最盛期を迎えた。

 道長の後、平安時代末期になると、藤原摂関家を外戚としない、後三条天皇が即位し、天皇親政が行われるなど、藤原家の権勢が弱まることとなった。

 戦国時代末期、豊臣秀吉は、武家として初めて関白に就任し、朝廷の権威を背景に全国支配に当たった。

 摂政は現代の日本国憲法下でも、内容を変え、その制度が存在しているのに対し、関白は、現在は存在しない。