【文化露寇(フヴォストフ事件)とは】わかりやすく解説!!背景や内容・その後など

 

江戸時代末期に起きた日本とロシア間での軍事衝突「文化露寇(フヴォストフ事件)」。

 

日本が鎖国を続けてきた中でロシア側の開国要求が見られるようになった中で、日本側の無礼な対応とロシア軍人の独断行動によって引き起こされました。

 

今回はそのような『文化露寇(フヴォストフ事件)』について解説していきます。

 

文化露寇とは?

(レザノフの船と部下 出典:Wikipedia)

 

 

文化露寇(ぶんかろこう)とは、1806年~1807年にかけて起きたロシア軍が蝦夷近辺を襲撃した事件です。

 

ロシア帝国の外交使節であったレザノフの部下であるフヴォストフによって行われた事件であることから、ロシア側ではフヴォストフ事件と呼ばれています。

 

もともとレザノフは正式な大使として幕府に対して通商を求め長崎に来航しましたが、幕府はレザノフに対して非常に乱暴な対応を行いました。それを機にレザノフは攻撃を命じます。

 

この事件の中で日本はロシア軍に敗れてしまい、幕府による支配体制が不安定になるきっかけとなります。

 

また、日本はロシアへの脅威から鎖国体制の維持国防の強化を進めていくこととなりました。

 

文化露寇が起こった背景

(長崎の出島 出典:Wikipedia)

 

 

文化露寇に至った背景には日本の特殊な事情がありました。それは鎖国体制です。

 

①鎖国体制

日本では江戸時代のほとんどの時期が鎖国体制となっていました。

 

江戸幕府成立後、オランダやイギリスとの交易を結んでいましたが、オランダを除いたポルトガルやスペインによる貿易体制はキリスト教の布教活動があったため、キリスト教を禁止したい幕府の意向が大きく働いたと言えます。

 

その中で1637年にキリスト教信者によって起こされた島原の乱により鎖国体制が決定的になりました。

 

そして1641年に鎖国体制が完成してから、他国との交流は途絶えていました。

 

その後、イギリスやポルトガルが国交回復の交渉に来たこともありましたが1600年代のうちにその来航も途絶える事となりました。

 

②ロシアによる開国要求

1600年代後半より他国との交流がなくなっていた日本ですが、1700年代の後半よりロシアが開国要求にやってきます。

 

1778年にはヤクーツクの商人であるラストチキンが来航しました。

 

蝦夷地域を統治していた松前藩に対して開国要求を行いましたが、拒否されました。鎖国下の日本と初めて接触したロシア人となります。

 

その後、1792年にはアダム・ラクスマン(ロシア帝国軍人)がアリューシャン列島にて漂流者であった大黒屋光太夫らと出会います。

 

 

(アダム・ラクスマン 出典:Wikipedia)

 

 

送還と通商要求の信書を手渡すことを目的としてラスクマンは根室に上陸しました。

 

幕府は通商交渉に対して拒否しますが、長崎の入港許可証を渡す形となりました。

 

当時の老中である松平定信はロシアとの交渉を視野に入れていたと考えられ、ラクスマン一行に対して丁重な処遇をするように松前藩に命令を出していましたとされます。

 

文化露寇の発生と経過

(ニコライ・レザノフ 出典:Wikipedia)

①レザノフの来航

1804年、ロシア側の正式な大使としてレザノフがやってきます。ラクスマンが受け取っていた長崎への入港許可証を持ってきました。

 

しかし幕府はラクスマン一行に対して行ったような丁重な対応はせず、レザノフに対して非礼な対応を取ります。

 

レザノフを実質的に半年間幽閉しただけでなく、結局通商を認めませんでした。レザノフは正式なロシアの大使であるにも関わらずです。

 

この対応には、老中土井利厚ら幕府の意向が強く働いていたと言えます。

 

結果、レザノフは日本の開国には強硬な対応が必要だと考えるようになりました。それは、武力による開国要求に繋がります。

 

②文化露寇

帰国したレザノフは、日本に対しての報復を行います。部下であるフヴォストフに松前藩領であった樺太の襲撃を命じます。

 

そして、レザノフは当時のロシア皇帝であるアレクサンドル一世に日本の開国には軍事行動が必要だと上奏しています。

 

しかし、レザノフの上奏は退けられました。

 

これはフランス革命によってフランスとの戦争が間近となっており、アジアへ出兵する余裕がなかったためと考えられます。

 

レザノフはフヴォストフに別の任務を与えますが、フヴォストフは独断で日本への攻撃を開始します。

 

レザノフもまた別の地で任務が与えられており、暴走を止められない状況だったのです。皇帝の許可がない軍事行動により、文化露寇が生じました。

 

フヴォストフは1806年に松前藩の樺太攻撃を行います。アイヌ人の子供の拉致(後に開放)し、兵糧や船を焼き払います。

 

船による連絡手段が断たれた事により、幕府はこの襲撃を翌年まで把握できませんでした。

 

襲撃を受けて幕府は松前奉行を設置し、総司令官の任務を与えて防衛を図ります。津軽藩・秋田藩・南部藩・庄内藩から兵を集め、3000人による警護体制を整えました。

 

しかし、日本の軍備とロシアの軍備には明確な差がありました。日本は鎖国により他国の文化を手に入れる事は乏しく、また目立った戦乱もなかったなかったため軍備は旧式のものでした。

 

ロシア軍艦の前に成す術もなく、防衛拠点としていた紗那を放棄せざる得なくなりました。

 

③ロシア軍の撤退

1808年に入り事態は急変します。

 

それまで独自で行っていたフヴォストフの行動が皇帝アレクサンドル一世の耳に入ったのです。

 

皇帝は勝手な軍事行動へ強い不快感を示し、すぐに全軍撤退を命じただけではなく、フヴォストフら関係した軍人を処分しました。

 

なお、レザノフは日本での心労などにより前年に亡くなっており、処罰はされませんでした。

 

江戸幕府は自力で追い返す事は出来ず、ロシア側の事情によって窮地を脱することとなりました。

 

そして文化露寇は唐突に終わりを迎えます。

 

文化露寇のその後

 

日本はロシアに敗れたことで社会的な不安が高まるとともに幕府による支配体制が緩いでいきます。

 

ロシアに対して強い脅威を感じるようになった江戸幕府は、鎖国体制を維持するために国防強化に取り組んでいきます。

 

その中で1808年にはイギリス船舶に対して起きたフェートン号事件、そして1811年にまたしてもロシアとの間でゴローニン事件が生じます。

 

 

ゴローニン事件は、文化露寇による影響が強く見られた事件で、解決まで二年以上かかることとなります。

 

その後、江戸幕府と諸外国の間で様々な問題が起こり、次第に鎖国体制の維持が出来なくなっていきます。

 

日本は1825年に異国船打払令を出して鎖国体制を強化しますが、それによりアメリカとの間にモリソン号事件などが生じます。

 

 

清国がアヘン戦争に敗れ、南京条約などを結ぶ過程の中で、日本も開国への道を歩む事となります。

 

そして、江戸幕府自体が終焉を迎えることとなっていきました。

 

まとめ

 文化露寇は、鎖国下の江戸時代に起きたロシアと日本の軍事衝突である。

 文化露寇前まで幕府は鎖国体制を維持できており、目立った内乱などもなかった。

 1800年代前後はロシア国による開国要求が行われた。

 文化露寇により日本は大敗し、国防の重要性が問われるようになった。

 文化露寇後、各国と様々な問題が起こり、幕府の鎖国体制の維持は困難となっていった。