【工場法とは】簡単にわかりやすく解説!!イギリス&日本での導入背景や内容など

 

産業革命による生産設備の発達から紡績業は生産力を大幅に伸ばしました。

 

その後、資本主義の発展により民間企業も次第に成長を遂げて、重工業でも軽工業でも飛躍的に生産力を伸ばすことになります。

 

しかし、工場の増加や生産力向上に合わせて賃金労働者が急増すると、劣悪な条件のもとで働く労働者の増加が社会問題となります。

 

その緩和を目的としてつくられたのが工場法でした。

 

今回は、この『工場法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

工場法とは?

 

 

工場法とは、1911年に労働者の労働環境改善のために、少年や女性の1日の最大労働時間や深夜業を規制した法律のことです。

 

産業革命や資本主義の発達などから賃金労働者が急増し、とくに若年層や女性について低賃金での長時間労働が社会問題となったことが背景にありました。

 

欧米では日本よりも早い時期に産業革命を迎えたため、イギリスでは日本より78年早い1833年に工場法が制定されています。

 

日本における工場法の前に、まずはイギリスの工場法制定から見ていきましょう。

 

 

イギリスの工場法

(鉄道の開業記念列車 出典:Wikipedia)

 

 

18世紀後半から19世紀に蒸気機関の開発を始めとする産業革命が起こると、交通革命や賃金労働者の増加など社会全体に大きな変化をもたらします。

 

過酷な労働条件のもとで働く賃金労働者を守るために、1833年に工場法が制定されました。

 

①法律制定の背景

18世紀半ばに、工業生産における生産様式が手工業から機械制工業に変わると、資本主義社会が確立していきます。

 

これに合わせて、資本主義的な農業経営が始まり、土地を失った農民は大農場や都市で賃金労働者となります。

 

農村出身の賃金労働者は熟練するものを持っていなかったので、就ける仕事は熟練でなくてもよい仕事に限られました。

 

これが工場経営者に対して立場が弱くなってしまった理由の一つであり、労働者は劣悪な労働環境のもとで働かざるを得なくなり、しだいに民衆の生活は苦しくなっていきました。

 

②工場法の始まり

1824年にイギリスで団結禁止法が廃止されて労働組合が合法化すると、労働組合が各地で結成されます。

 

労働組合は賃金や労働時間などの労働条件の改善のため、経営者と交渉にあたったり、ストライキの行使や憲法改正と社会の変革を求めるチャーティスト運動を支持することもありました。

 

繊維産業では、綿業王と呼ばれたオーウェンが紡績工場で財をなしますが、若いころから労働者の状態には心を痛めていました。

 

 

(ロバート・オーウェン 出典:Wikipedia)

 

 

オーウェンは、1819年の紡績工場法の制定に力を尽くし、この法律によって9歳以下の労働禁止と16歳以下の労働時間を12時間に制限されることになりました。

 

また、自らが経営する工場では労働条件の改善や労働組合などを結成する支援を行います。

 

③工場法の制定

労働者問題が社会問題として活発になり労働組合の活動も活発になると、たとえ自由主義であっても最小限の国家介入も必要と方針転換し、政府も介入することになります。

 

これによって生まれたのが工場法です。

 

1833年に工場法が制定され、9歳未満の労働を禁止し、9歳から18歳未満の労働時間を1週間あたり69時間以内と制限しました。

 

さらに、これらを監督する監督官の配置が義務化され、責任の所在を明確なものとなります。

 

工場法は、これまでの業種別の工場法と区別して、どの業界でも全般に通用するものとして「一般労働法」とも呼ばれました。

 

④工場法のその後

工場法制定後も課題は多く、改正を繰り返しながら労働環境が改善されていきます。

 1844年改正:女性労働者の労働時間を18歳未満の労働者と同じ69時間に制限

 1847年改正:18歳未満の労働者と女性労働者の労働時間を1日10時間以内と制限

 1867年改正:工場法が適用される工場は50人以上の工場全てが対象となる

 1874年改正:平日10時間、土曜6時間までとする週56時間労働制を導入

 

日本の工場法

(富岡製糸場 出典:Wikipedia)

 

 

資本主義の発達や工場制工場の広まりによって賃金労働者が増加します。

 

その労働者は女性も多く、低賃金での長時間労働について社会問題化していきました。

 

経営者や資本家の反対の中、政府は労働者保護のために1911年に工場法を制定するにいたります。

 

①当時の時代背景

日清戦争前から繊維産業を中心に始まっていた産業革命は、繊維産業を中心とした資本主義を成立させます。

 

日露戦争後には重工業部門が遅れて発達し、造船や車両、鉄鋼などで発展がすすみました。

 

 

さらに資本主義の発達はめざましく、工場制工業が次々に増加すると賃金労働者も増加していきます。

 

とくに、農家では後継となる長男以外の次男や三男、女性などが家計を助けるために出稼ぎにでていくことが多くなりました。

 

繊維産業や重工業、鉱山部門などでは男性労働者が多く、繊維産業部門では女性労働者が多くなっており、それぞれ劣悪な労働環境のもとでの労働に従事していました。

 

例えば、東京の造船所では11011時間に残業を加えて1316時間労働でした。

 

紡績工場の女性労働者は、昼夜交代の12時間労働でしたが中小企業では1617時間労働も珍しくありませんでした。

 

②労働争議と日本社会党

日清戦争前に高島炭坑事件での暴動や甲府での女工のストライキなどが起き、日清戦争後には労働組合期成会が結成されて各地で労働組合がつくられます。

 

労働争議が頻発するようになると、片山潜を中心とした労働組合運動が展開されました。

 

 

(片山潜 出典:Wikipedia)

 

 

1900年に政府は治安警察法を公布することで、労働者の団結権などを制限して労働運動を取り締まりながらも、経営者側と労働者の対立を緩和するために労働条件の改善に向けた法整備をすすめます。

 

日露戦争後には労働争議は激しさを増し、1906年に片山潜らは日本社会党を結成します。

 

党内には、幸徳秋水ら急進派による直接行動派と議会政策重視の議会政策派が対立することになります。

 

 

 

(幸徳秋水 出典:Wikipedia)

 

 

同年に日本社会党は政府から解散を命じられ、翌年には赤旗を掲げて行進する社会主義者たちが警察と衝突する赤旗事件が起きます。

 

さらに、社会主義運動に対する取り締まりは厳しくなり、1910年に明治天皇暗殺を計画したとして多くの社会主義者が逮捕され、処刑されます。これが大逆事件です。

 

 

③工場法の制定

大逆事件をきっかけに、政府は警視庁内に特別高等課を設置して社会主義運動を厳しく取り締まります。

 

これにより、社会主義は国民から危険視され、社会主義者の活動は衰えます。

 

しかし、労働条件の改善が解決したわけではないので、社会政策的な配慮から政府は1911年に工場法を制定し労働者と資本家の対立を緩和させようとしました。

 

日本最初の労働者保護立法となった工場法では、少年・女性の労働時間を12時間までとし深夜業が禁止となります。

 

しかし、15人以上を使用する工場に適用範囲が限られたこと、製紙業・紡績業では14時間労働で深夜業を認めたことなど、徹底するには至いたりませんでした。

 

また、公布は1916年と5年を要することになります。

 

④工場法のその後

1923年に工場法は改正され、常時10人以上を使用する工場に適用範囲が大きくなります。

 

また、原則12歳未満の就業を禁止し、就業時間は12時間から11時間に短縮、保護職工とされる年少者の範囲は15歳未満から16歳未満に変更されます。

 

この工場法は1947年に労働基準法が施行されるまで続きました。

 

まとめ

 工場法とは、1911年に賃金労働者の労働条件の改善のために制定された法律のこと。

 産業革命後の工業化から賃金労働者が増加する中で、労働者が低賃金で長時間労働を強いられたことが社会問題化したことがきっかけとなった。

 政府は労働者と資本家や経営者側との対立を緩和するために、労働運動の沈静化とともに労働者保護のための法律の整備をするにいたった。