明治時代になり、近代的な軍隊が作られた当時に天皇から下されたという軍人勅諭
戦前までの軍人は必ず覚えさせられたという話もありますが、実際にはどんなものだったのでしょうか?
今回はそんな『軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)』について、その成立や内容などわかりやすく解説していきます。
目次
軍人勅諭とは?
(明治天皇 出典:Wikipedia)
軍人勅諭とは、1882(明治15)年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下した勅諭のことです。
正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」(りくかいぐんぐんじんにたまわりたるちょくゆ)。
「勅諭」というのは天皇が直接下した訓示のようなものです。
天皇による「勅語(ちょくご)」というのもありましたが、こちらは現代風に言えば「おことば」にあたるものです。
軍人勅諭がだされた背景
①軍人勅諭が起草された背景
江戸時代までは戦いに参加するのは武士とされていましたが、明治になると徴兵制ができて武士以外の国民のあらゆる階層が軍隊に入ることになりました。
しかし、西南戦争や自由民権運動などによって社会情勢がゆれ始めると軍隊にも動揺が走りました。
さらに西南戦争の翌年には竹橋事件という兵士による反乱事件まで起きてしまいます。
これは当時の軍のリーダーたちに衝撃を与えました。
危機感を持った陸軍卿(りくぐんきょう/内閣制度ができる前の陸軍のトップ)の山県有朋(やまがたありとも)は、軍隊の権威となるような教えが必要だと考えます。
こうして作られたのが軍人勅諭でした。
②軍人勅諭の起草者
軍人勅諭の起草者(実際に文案を作った人)は西周という人です。(※「せいしゅう」ではなく「にしあまね」と読みます)
(西周 出典:Wikipedia)
西周は西洋の学問を日本に広めた哲学者で、「哲学」「科学」「芸術」などといった現在でも使われる訳語を考えたことでも知られています。
この西が書いた草案に、山県らが手を入れて完成させたと言われています。
軍人勅諭の内容
①軍人勅諭の概要
他の勅語は漢文で書かれたものが多いのですが、軍人勅諭はひらがな交じりの和文で読みやすく書かれています。
ただし文語体なので今では難しく感じますが、天皇が軍人に語りかけるという内容で、当時の人々にはわかりやすかったのでしょう。
軍人勅諭は、まず「天皇の軍隊」であることが強調されています。
そして、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5ヶ条の徳目が説かれています。
2686字もの長文で、全文引用するとこの記事が終わってしまう量なので、簡単に要約してご紹介しましょう。
②軍人勅諭の具体的な内容
【前文】
まず、古代からの日本の軍制の歴史が語られ、軍隊は天皇が統率するということが書かれています。
【忠節】
「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」。天皇への忠節が第一であると説かれます。
「死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ(軍人の死は羽毛よりも軽いと覚悟せよ)」というフレーズが有名です。
また軍人は政治に関わってはいけないということも書かれています。
【礼儀】
「軍人は礼儀を正しくすべし」。軍人は礼儀正しくしなさいということです。
「上官の命令は天皇の命令と同じ」といって、兵士は上官に絶対服従すべきであるということが書かれています。
【武勇】
「軍人は武勇を貴ぶべし」。軍人は武勇を尊ぶべきだとされます。
ただ血気にはやる乱暴なふるまいは武勇とは言えず、よく考えて行動すべきであるということが説かれます。
【信義】
「軍人は信義を重んじるべし」。軍人は信義を重んじるべきであると説かれています。
「信」とは自分の言葉を実行すること、「義」とは自分の本文を尽くすことと説明されています。
【質素】
「軍人は質素を旨とすべし」。軍人は質素であるべきだということです。
ぜいたくをしているといずれワイロをとるようになって堕落してしまうぞということが書かれています。
軍人勅諭の影響
①軍人への暗記の強制
軍人勅諭は天皇が下したものなので、兵士たちにとっては守るべき金科玉条とされました。
そして、しだいに全文を暗唱することが強制されるようになります。
また学校でも教えられるようになり、全ての国民に軍人としての精神を浸透させようとしました。
ただ、陸軍では丸暗記が必須だったのですが、海軍では軍人勅諭はそれほど重要視されておらず、その精神は重んじられるものの、全文暗記までは求められなかったという話もあります。
陸軍と海軍の文化の違いが出ているところと言えるでしょう。
②天皇の統帥権
軍人勅諭の内容はなんということはない軍人の心構え集のように見えるかもしれません。
しかし、この文面が後にとても重大な影響を与えることになります。
まず「天皇の統帥権(とうすいけん)」という問題です。
軍人勅諭では天皇は軍の大元帥(だいげんすい)であると書かれています。
つまり軍は天皇が直接指揮する権利を持っているということになったのです。これを「統帥権」と言います。
しかし、実際には天皇が軍にあれこれ指示することはありませんから、軍のトップが実質的に独立した権限を持つことになります。
この軍人勅諭の後に大日本帝国憲法ができるわけですが、軍人勅諭は天皇の言葉であって絶対ですので、天皇の統帥権はそのまま維持されました。
これによって、総理大臣などの政府の人間は軍に口出しできないことになったのです。
③統帥権干犯問題
もちろん、普段であれば政府と軍の方針が大きく違うということはないのでさほど問題にはなりません。
しかし、政府と軍の方針が食い違った時に大変な問題となりました。
それが1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約調印です。
政府が結んだ軍縮条約によって兵力を縮小することになったのですが、これを海軍は「統帥権干犯(かんぱん)」だと言って攻撃しました。
つまり、天皇の統帥権に干渉するのかということです。
こうして軍は政府から独立したものであるという風潮ができあがっていったのです。
軍部はしだいに力を持つようになり、太平洋戦争のころにはもはや政府によるコントロールが及ばない状況になりました。
軍人勅諭の廃止
軍人勅諭は太平洋戦争の敗戦まで軍の精神的な柱となっていました。
しかし日本は敗戦してしまい、その後にできた日本国憲法によって日本軍は解体されます。
1948(昭和23)年、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、 軍人勅諭は教育勅語と共に失効したことが正式に確認されました。
まとめ
✔ 軍人勅諭は1882(明治15)年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下した勅諭。
✔ 西南戦争や竹橋事件などにより動揺した軍隊の精神的な教訓として作られた。
✔ 山県有朋が発案し、西周が起草した。
✔ 忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5ヶ条の徳目が説かれている。
✔ 「天皇の軍隊」であることが強調され、特に陸軍では全文暗唱が強制された。
✔ 天皇の統帥権の根拠となり、後の政治にも影響が及んだ。