幕末の時期ともなると、日本の周辺は他国の船が多く来航していました。
特にロシアは千島列島への領土拡大を狙っていたことから頻繁に日本に接近しており、それが日本に大きな緊張を与えていました。そんな緊張が引き金となって起こったのがゴローニン事件です。
今回はそんな『ゴローニン事件』について内容だけでなく、事件の背景やその後の影響などをわかりやすく解説していきます。
目次
ゴローニン事件とは?
(ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン 出典:Wikipedia)
ゴローニン事件とは、1811年 ロシア軍艦ディアナ号艦長であるゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月もの間日本に抑留された事件のことです。
ゴローニン事件が発生した背景・目的
①千島への接近
この当時千島列島にはアイヌの人々が住んでいました。
ロシア帝国は東方地域へと領土を広げていましたが、18世紀に入るとオホーツクやペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教やヤサークと呼ばれる毛皮税の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになっていました。
一方日本も松前藩が国後場所を設置してアイヌとの交易を開始していました。
②ロシアへの脅威
ゴローニン事件が起きる前、ロシアの接近によって日本国内には緊張が走っていました。
1792年、アダム・ラクスマンが江戸での通商を求める使節として、漂流民の大黒屋光太夫を引き渡すことを口実に根室に来航します。
(アダム・ラクスマン 出典:Wikipedia)
しかし、幕府は漂流民を引き取るだけで通商は長﨑の入港を認める「信牌」を渡しただけで拒否しました。当時、外国との通商が認められたのは長崎の出島で、しかも相手国は清とオランダだけでした。しかし幕末の頃になると諸外国が次々と日本へと接近してきます。
1804年、ニコライ・レザノフは、漂流民を伴って、通商を求めるために長﨑に来航しました。
(ニコライ・レザノフ 出典:Wikipedia)
今度はラクスマンが渡された信牌を携えて、きちんと長﨑から日本に入ろうとしましたが、やはり幕府は漂流民を引き取るだけで通商を断ります。
こうした日本の無礼な拒絶のしかたに対して、武力を用いようと考えたレザノフは、部下のフヴォストフとダヴィドフに日本への武力行使を命じました。そこでフヴォストフらは1806年から1807年にかけて択捉島や樺太・利尻島を襲撃し、火をつけたり略奪するなど暴挙をふるって住民を脅かしました。
実際はレザノフが独断で起こしたことなのですが、この事件を耳にした幕府は、日本が通商を断ったことに対してロシアが怒って、国家の命令で起こしたのだと考えます。そして次の襲撃に備えて沿岸の警護を強化します。さらにロシア船が来航した際は打ち払えという「ロシア船内払令」を出します。
こうしてこの時期の日本はロシア船に対する恐怖心と緊張感でピリピリとしたムードが漂っていたのです。
ゴローニン事件の内容
①ゴローニンの捕縛
1811年、ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大佐は測量のために千島列島を南下していました。5月に択捉島に上陸すると、松前奉行所調役下役の石坂武兵衛に薪水の補給を求めます。
石坂は択捉島の振別会所へ行くように指示しますが、ゴローニン達は振別には向かわずに国後島南部へ向かいました。根室海峡の周辺に行ってみたいという単純な興味と、たまたま天候が良くなかったからです。
しかし、日本からすれば来るはずのないところに恐ろしいロシア船が現れたのです。警固の南部藩兵たちはただちに砲撃を開始。もちろんゴローニンたちは襲撃が目的ではありません。薪水の補給を受けたいのだというメッセージを樽に入れて送りました。
すると日本側は、ならば陣屋に来るようにと返事したので、6月4日、ゴローニンら9名は陣屋を訪問します。そこで初めは食事を振る舞われたりと好意的な接待を受けますが、いざ薪水の補給となると、松前奉行の許可が必要なので待っていてほしいと日本側は言います。
しかもその間、人質はこちらに残しておいてくれというのです。そんな話を信用できるはずがありません。ゴローニンは船に戻ろうとしますが、そこを捕縛されてしまいます。つまりこれは初めからゴローニン達を捕らえるために日本が仕組んだ罠だったのです。
捕縛されたゴローニンらは松前に監禁されました。幕府は敵を知るべく、ゴローニンらを監禁している間、上原熊次郎、村上貞助らをゴローニンのもとへ行かせてロシア語を学ばせました。
そのほか間宮林蔵らがゴローニンらを訪問し、作図用具などを持ち込んではその使用方法を教えるように求めました。敵でありながら、西洋のものに対する人々の興味は留まることがなかったのです。
②高田屋嘉兵衛の拿捕
ディアナ号に残っていた副艦長のリコルドは、ゴローニン達を奪還しようと一旦オホーツクへと戻ってこの事件を海軍大臣に報告し、救出に奔走します。
(老年のリコルド 出典:Wikipedia)
交渉材料とするために日本人を拿捕しましたが、その中に観世丸に乗船していた高田屋嘉兵衛がいました。嘉兵衛を含む6名はペトロパブロフスクへ連行されます。
(高田屋嘉兵衛 出典:Wikipedia)
連行というとひどい扱いを受けたように思えますが、宿舎ではリコルドと同居したり、オリカという少年と仲良くなってロシア語を学ぶなど、比較的自由に行動できました。しかし、このままでは何も解決しないと考えた嘉兵衛は、自らが話をつけようと乗り出します。
嘉兵衛は、日本が砲撃するのもゴローニンが捕らわれたのも、フヴォストフらの襲撃が原因であるということ、幕府へ謝罪をすればゴローニンたちは釈放されるだろうということをリコルドへ伝えました。
言葉が通じないにもかかわらず、嘉兵衛の堂々とした立ち振る舞いを見てその人間性に感じ入ったリコルドは、自らが日本との交渉に臨み、嘉兵衛の提言通りに謝罪文を書くことにしました。
その頃幕府は、フヴォストフの襲撃は皇帝の命令によるものではないことをロシアが正式に証明すればゴローニンを釈放するという方針を決めました。そこで1813年5月、嘉兵衛とリコルドらは交渉のためにディアナ号で国後島へ向かいます。
到着するとまず嘉兵衛が国後陣屋へ行き、これまでの経緯を説明しました。そして日本から預かった文書をリコルドに届け、ロシア側からは公式の釈明書が松前奉行に提出されると、9月26日にようやくゴローニンらは解放されました。
こうしてゴローニンの2年3か月に及ぶ捕虜が終わりを告げるのです。
ゴローニン事件の影響・結果
(ロシアで発行された切手 出典:Wikipedia)
事件は解決しましたが、通商に関しては日本は拒絶の姿勢を変えることはありませんでした。
しかし、この事件の解決には嘉兵衛の存在と行動力が不可欠でした。事件後嘉兵衛は故郷である淡路島に帰りました。また事件を解決に導いた褒美として、幕府から金5両が与えられました。
一方帰国したゴローニンとリコルドは二人とも一気に海軍中佐まで昇進して、さらに年間1500ルーブルもの終身年金を与えられました。
ゴローニンは帰国後、『日本幽囚記』を出版します。
これは日本で捕らえられていた間の生活を書いただけでなく、日本の風俗習慣、宗教、政治等を洞察して書き表しています。この本が海外で広く読まれたことによって、これまで鎖国によって他国に対して閉ざされていた扉を開くきっかけとなりました。
そして注目すべきは、ゴローニンは自らが捕らわれの身であったのにもかかわらず、日本人を「世界で最も聡明な民族」であり、「勤勉で万事に長けた国民」であるととてもポジティブに評価している点です。
この本によって、それまでヨーロッパ人が抱いていた日本人のネガティブなイメージを一変させることとなりました。
ゴローニン事件の語呂合わせ
ゴローニン事件は1811年に起きました。
語呂合わせは「人はいい(1811)ゴローニン」と覚えましょう。
まとめ
・ゴローニン事件とは1811年、ロシアのゴローニンらが国後島で松前奉行により捕らえられ、約2年3か月もの間抑留された事件のこと。
・ゴローニンの釈放は漂流民である高田屋嘉兵衛との交換によって解決された。
・ゴローニンは帰国後、『日本幽囚記』を著し、日本の風俗や習慣を海外へと広めた。
・ゴローニン事件が起きた年号の語呂合わせは「人はいい(1811)ゴローニン」。