天正遣欧使節とは主にローマに派遣された4人の少年のことを言います。
当時の政治や宗教の影響を大きく受け、現在では悲劇的な道を歩んだ少年たちとしても知られています。
今回はそんな『天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)』のメンバーやその後、時代背景も含めて、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
天正遣欧使節とは
(天正遣欧使節とローマ教皇『グレゴリウス13世』 出典:Wikipedia)
天正遣欧使節とは、キリスト教を学ぶために1582年(天正10年)にローマに派遣された4人の少年を中心とした使節団のことを言います。
1590年に帰国しましたが、そのときの日本はキリスト教を追放する動きが強まっており、4人は思うような活動はできませんでした。
天正遣欧使節の目的
①キリスト教の布教が進む日本
1549年、フランシスコ・ザビエルにより日本に初めてキリスト教がもたらされました。
フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸し、長崎でキリスト教を広め始めたため、西日本を中心にキリスト教を信仰するキリシタン大名が増えていきます。
キリシタン大名とはその名の通りキリスト教を信仰する大名、その地方を治める武士のことを言います。
特に有名なキリシタン大名として日本初のキリシタン大名となった大村純忠、有馬晴信、大友宗麟、高山右近などが挙げられます。
②ヴァリニャーノの計画
(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 出典:Wikipedia)
天正遣欧使節をローマに派遣することを計画したのは日本を訪れたキリスト教司祭のヴァリニャーノという人物です。
ヴァリニャーノはキリスト教を広めることを目的として来日しました。
まず日本人を司祭として育成することを目指し学校を充実させました。
さらにキリスト教布教を進めたいヴァリニャーノでしたが、教育機関の充実や全国を回る布教活動は費用がかかってしまいます。
そこで布教活動のための費用を援助してもらうねらいもあって、天正遣欧使節の派遣を提案し、それによってキリシタン大名である大村純忠、有馬晴信、大友宗麟が派遣を決定しました。
③天正遣欧使節の目的
天正遣欧使節を派遣した目的は大きく2つあります。
1つは日本人の少年たちにヨーロッパのキリスト教の姿を見せ、体験させること。さらに帰国後に彼らの口からその体験を語らせ、日本でのキリスト教布教に役立てることがありました。
2つ目は日本の少年たちの姿を見せることで日本での布教活動がうまくいっていることを示し、ローマ教皇や国王にキリスト教布教の援助を求めることがありました。
天正遣欧使節団のメンバー
(天正遣欧使節団『右上"伊東"、右下"千々石"、左上"中浦"、左下"原" 出典:Wikipedia)
天正遣欧使節団として派遣されたメンバーはいずれもキリスト教の学校であるセミナリヨで学んでいた4人の少年たちで、
名前は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノです。
いずれも派遣された当時の年齢は正確には伝わっていませんが、13歳から14歳と言われています。
片仮名の名前となっているのは、これが洗礼名だからです。
キリスト教に入信する際に与えられる名前のことで聖書や聖人の名前から取ります。
派遣先での天正遣欧使節
1582年の2月に日本を出発した使節団はマカオ、インドを経由して1584年8月にポルトガルに到着します。
2年以上航海が続き、まだ少年だった使節団にとって過酷な旅でした。
その後はヨーロッパを移動し、目的地であるローマに到着したのは1585年3月、派遣から3年以上経っていました。
ヨーロッパでは盛大な歓迎を受け、ローマ教皇からは日本での布教活動のために援助を得ることに成功しました。
1590年に帰国した使節団は印刷機や西洋の楽器、海図などを持ち帰りました。
少年だった使節団のメンバーは帰国時、22歳から23歳と成長を遂げていました。
帰国後の天正遣欧使節団
①帰国時の日本
帰国した4人を待っていたのは、出発したときとまったく違う日本の姿でした。
出発する際には日本を治めていたのは織田信長でした。
織田信長はキリスト教への理解がありキリスト教布教も認めていましたが、天正遣欧使節団が出発した年に本能寺の変で亡くなってしまいました。
その後に日本を治めたのは豊臣秀吉ですが、豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し、キリスト教排除に向けて動いていました。
バテレン追放令のバテレンとはキリスト教の司祭のことを指し、これが始まりとなって江戸時代のキリスト教弾圧へとつながっていくのです。
さらにキリシタン大名として天正遣欧使節を派遣した大村純忠、大友宗麟も亡くなっていました。
②豊臣秀吉との謁見
帰国した使節団はヴァリニャーノとともに豊臣秀吉に謁見し、持ち帰った楽器の演奏を行いました。
豊臣秀吉はその演奏を大変喜んだようですが、4人の少年はキリスト教徒として謁見することは許されず、インド王の使者として豊臣秀吉に会いました。
多くの人の期待を受けて日本の代表として旅に出たはずなのに、帰国するとキリスト教徒として名乗ることもできないなんて悲しすぎますね。
③布教を続けた3人
バテレン追放令が出された日本はキリスト教弾圧に向かって動いていました。
その中で使節団の4人が送った人生は様々です。
まず伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノの3人は天草の神学校で学び続け、海外に留学もしました。
司祭となってから帰国後も3人は布教活動を続けます。
伊東マンショは福岡の小倉で布教を行っていましたがその地を追われ、最後は長崎で過ごし、病で亡くなりました。
中浦ジュリアンはキリスト教が禁止されてからも20年以上潜伏し、キリスト教布教を続けました。
しかし最後は拷問にあい、処刑されてしまします。
原マルチノは江戸幕府によるキリシタン追放令後、マカオに移住し翻訳や出版の仕事を行いました。
④棄教した千々石ミゲル
千々石ミゲルは4人の中で唯一キリスト教から離れました。
ヨーロッパを訪問した際に奴隷制度を目にした千々石ミゲルはキリスト教に不信感を抱いたと言われています。
さらに「キリスト教は外国を侵略するために使われている」とも訴えています。
これは実際間違いではなく、千々石ミゲルは冷静にヨーロッパを見てきたのかもしれません。
キリスト教から離れた千々石ミゲルは武士として働き、ひっそりと暮らしたようです。
天正遣欧使節の覚え方
天正遣欧使節が派遣された年は「1582(いちごパンツ)履いて出発天正遣欧使節」と覚えましょう。
また使節団のメンバーは「はないちもんめでローマに出発」でと覚えましょう!
※「は」原マルチノ、「な」中浦ジュリアン、「い」伊東マンショ、「ち」千々石ミゲル。
まとめ
・天正遣欧使節はヴァリニャーノの提案で派遣された。
・天正遣欧使節の目的は日本人にヨーロッパのキリスト教を見せ、またローマ教皇に布教の援助をしてもらうことで、日本のキリスト教を進めること。
・天正遣欧使節のメンバーは伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人。
・天正遣欧使節が帰国したときはキリスト教の弾圧が始まっていた。
・覚え方は年号は「いちごパンツ(1582年)」メンバーは「はないちもんめ(原マルチノ、中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル)」。