戦国時代から江戸時代に設立された、キリスト教の神父(司祭)を育成する学校『セミナリオ』と『コレジオ』。
今回はこれらの違い・意味や覚え方について、わかりやすく解説していきます。
目次
セミナリオとコレジオの違い
セミナリオとコレジオとは、どちらもイエズス会が日本でキリスト教の布教活動を行う神父(司祭)を育成するために開設した学校です。
違いは、10歳~18歳のキリシタンの男子が対象の中等教育機関セミナリオに対し、コレジオはセミナリオを卒業し、神父(司祭)になる素質のある者だけが入学を認められた高等教育、つまり大学のような場所でした。
コレジオはポルトガル語で書くとcolégio、英語ではcollege、言葉の意味そのままです。
それぞれの意味
✔ セミナリオ……戦国時代から江戸時代(16世紀中頃~17世紀初頭)の日本に、キリスト教を広めにやってきたイエズス会の宣教師たちが設立したカトリック教会の司祭(神父)を養成するための全寮制の学校。キリシタンの10歳~18歳までの男子が学びました。
✔ コレジオ……セミナリオと同時期にイエズス会の宣教師たちによって建てられた司祭(神父)を養成するための大学。セミナリオを卒業した優秀な学生のみが入学を許可され、キリスト教に関係した科目だけでなく、天文学や幾何学など幅広い教養科目も学びました。
ここからはセミナリオとコレジオについてそれぞれ詳しく解説していきます。
セミナリオについて詳しく
①セミナリオの教育
セミナリオは、カトリック教会の司祭(神父)を養成するための全寮制の学校で、キリシタンの10歳から18歳までの男子が学びました。
入学が許可されたのは、両親と本人が希望し、生涯にわたって教会に奉仕することを約束した子どもだけでした。
授業科目は、ラテン語、日本語、キリスト教教理、音楽など。
中でも、礼拝に不可欠な音楽は最重要科目。
毎日1時間、フルートやオルガンなどの楽器の演奏や聖歌の練習が義務づけられていました。
また、日本での布教を意識し、ラテン語やキリスト教といった西洋の勉強だけでなく、日本語、日本古典文学なども勉強していました。
②セミナリオの1日
セミナリオで学んでいた子どもたちの1日のスケジュールを見てみましょう。
スケジュール
4:00 起床
5:00頃まで 司祭たちとお祈り
6:00~7:00 学習
7:30~9:00 ラテン語の宿題
9:00~11:00 食事&休憩
11:00~14:00 日本語の学習
14:00~15:00 聖歌の練習
15:00~16:30 ラテン語の学習
17:00~19:00 夕食&休憩
19:00~20:00 ラテン語の復習
20:00~ 祈りを唱えて就寝
以上のように充実したスケジュールでした。
休みは日曜日と祝祭日。夏休みもあったようです。
③安土と有馬のセミナリオ
日本国内にセミナリオが建設されたのは1580(天正8)年。
イエズス会のヴァリニャーノ神父がキリシタン大名有馬晴信の有馬領内(長崎県南島原市)に、またオルガンティーノ神父は織田信長の許可を得て安土城下にそれぞれセミナリオを建設しました。
ちなみに、このオルガンティーノ神父は、京都に南蛮寺と呼ばれるキリシタンの教会を建てた人でもあります。
有馬領内のセミナリオは、仏寺を改造したもので、最大で130人もの少年たちが教育を受けていました。
1582年にローマに派遣された天正遣欧少年使節の4人の子どもたちはこのセミナリオの卒業生でした。
(天正遣欧少年使節 出典:Wikipedia)
安土城下に建てられたセミナリヨは、なんと3階建て。
信長自慢の安土城と同じ水色の瓦屋根で、1階には茶室つきのお座敷、2階には神父の居室、3階には教室と生徒の寮がありました。
その豪華さたるや海外にも知られていたほどでした。
時々信長も訪れ、少年たちのオルガンの演奏に耳を傾けていたそうです。
④セミナリオの衰退
セミナリオの不運は、戦局が目まぐるしく変わる戦国時代に建てられたこと。
安土のセミナリオは建設から2年後の1582年本能寺の変によって、キリスト教を保護していた信長が死去し、事態は急変。
謀反を起こした明智光秀の軍勢の侵略で焼失してしまいました。
その後、安土にあったセミナリヨは京都、高槻、大阪へと移転。
さらに、1587年豊臣秀吉が宣教師の国外追放を命じたバテレン追放令によって、1588年に長崎の有馬領内のセミナリヨと合併することになりました。
それもつかの間、1613年江戸幕府がキリスト教を禁止する禁教令を出したことで、1614年にセミナリヨは消滅しました。
コレジオについて詳しく
(長崎コレジオ 出典:Wikipedia)
①コレジオの教育
コレジオは、セミナリオを卒業し、司祭(神父)としての適性があると認められた子どもたちが学ぶ学校。
セミナリオが中学・高校とするなら、コレジオは大学のような学びの場でした。
コレジオは3年制で、キリスト教だけにこだわらず、中世のヨーロッパで必須の教養科目とされた7学科(文法・修辞学・弁証論・算術・天文学・幾何学・音楽学)を学びました。
パリ大学といった名門大学を卒業した超優秀な宣教師たちが教師となり、ラテン語で授業を行いました。
ヨーロッパから遠く離れた日本でも、コレジオの学問レベルはヨーロッパの大学に匹敵するほど高いものだったといいます。
②豊後府内のコレジオ
1580年イエズス会のヴァリニャーニ神父は、キリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)の支援の下、豊後の府内(大分)にコレジオを開校しました。
しかし、セミナリオと同じように日本国内でのキリスト教の弾圧によって、島原の加津佐(長崎県南島原市)・熊本の天草(熊本県天草市)、1597年には長崎へと移り、江戸幕府の禁教令により1614年にセミナリオ同様、コレジオも消滅しました。
セミナリオとコレジオの覚え方
テストでは、セミナリオとコレジオの設立された場所を問われることがあります。
セミナリオは有馬(長崎)と安土(滋賀)、コレジオは府内(大分)に建てられました。
以下のように覚えましょう!
『不甲斐ない(府内)大学(コレジオ)ですが、セミ(セミナリオ)とアリ(有馬)には安(安土)心です。』
まとめ
・セミナリオとコレジオは、戦国時代から江戸時代に、イエズス会の宣教師たちが、カトリック教会の司祭(神父)を養成するためにつくった学校のこと。
・セミナリオは10歳から18歳までのキリシタンの男子が対象の中等教育機関、コレジオはセミナリオを卒業した優秀な学生が入学対象となった高等教育機関(大学)。
・セミナリオでは、礼拝に必要な楽器の演奏や聖歌の練習など音楽教育に力を入れた。
・コレジオでは、キリスト教関連の科目だけでなか卯、教養科目も学んだ。
・安土城下と長崎有馬にセミナリオ、豊後府内にコレジオが建設されたが、国内のキリスト教政策により移転を余儀なくされ、江戸幕府の出した禁教令により1614年に消滅した。