今回は江戸時代にオランダから伝来し、日本の近代化には欠かせなかった”蘭学”とは、一体どのような学問だったのでしょうか。
今回は、蘭学の内容や歴史、時代に与えた影響などをわかりやすく解説していきます。
目次
蘭学とは。意味や内容
(明治2年発刊 蘭学事始 出典:Wikipedia)
オランダから日本に伝来した西洋の学問や技術の総称を”蘭学”といいます。
蘭学の分野は大きく分けて次の4つに分類されます。
蘭学の4つの分野
1.語学……オランダ語
2.自然科学……医学、天文学、物理学、化学など
3.人文科学……西洋史、世界地理、外国事情など
4.その他技術……測量術、砲術、製鉄など
これらの分野のなかでも、蘭学の中心は医学を中心とした自然科学でした。
では、鎖国時代、オランダから日本に伝わった蘭学の歴史を詳しくみていきましょう。
蘭学の歴史『オランダから伝来』
(徳川吉宗 出典:Wikipedia)
①幕府の政策
蘭学の歴史は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の時代までさかのぼります。
日本は鎖国真っただ中、貿易をする国は数が限られていました。その中で、交流のあったオランダから、オランダ語の書物も一緒に輸入されてきました。
この書物を通じて、日本人は西洋の学術である蘭学を学ぶことになるのです。
また、徳川吉宗は国内の産業を盛り上げ、生産力を向上しようという方針を出していました。その考え方から、外国の物産に興味を持っていたのです。
1720年(享保5)には、江戸幕府が鎖国の一環としてキリスト教に関係する書物を輸入することを禁止する「禁書令」をゆるめ、多くの西洋学術の書物が伝来してきました。
②特に影響を与えた書籍
1659年(万治2)ドドネウスが著した『草木誌』、1663年(寛文3)ヨンストンが著した『動物図説』が日本に伝来します。
しかし、当時は誰も翻訳することができませんでした。
吉宗はこの二つの書物に興味をもち、青木昆陽や野呂元丈らに翻訳を命じました。
この二つの書物は日本の学問・技術に大きな影響を及ぼしました。
蘭学の歴史『蘭学の発展と洋学』
(解体新書巻の一 出典:Wikipedia)
①医学の発展
徳川吉宗によってオランダ語を学ばせ、書物を翻訳させるというのが大きなきっかけとなって、1771年(明和8)杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周らによってクルムスが著した人体解剖書の翻訳が始まりました。
そして、1774年(安永3)『ターヘル・アナトミア』の翻訳書で、日本で最初の西洋解剖学書『解体新書』が出版されました。
日本の医学にとって大きな躍進であり、蘭学はこの出版をきっかけに更に発展していくのです。
②蘭学の広がり。百科全書の翻訳
江戸を中心に蘭学は広まりをみせていましたが、次第に京都や大阪など、他の地方にも広がっていきました。
民間の学者、大名の家臣である医者が蘭学を率先して研究していったのです。
このように普及していった蘭学は幕府にも認められ、1811年(文化8)西洋書を翻訳する部署を設けられました。
そこで大槻玄沢、馬場佐十郎の2名が翻訳者として任命され、ショメルが著した百科全書(オランダ語)の翻訳に取りかかりました。
(百科全書の表紙 出典:Wikipedia)
③蘭日辞書
同じ頃、長崎のオランダ通訳者とオランダ商館長ドゥーフによって、蘭仏対訳辞書の和訳が行われ、蘭日辞書が完成しました。
(初の蘭和辞典 出典:Wikipedia)
これにより、蘭学は新たなステージを迎えましたが、オランダ以外の諸外国との関係が複雑になるなかで、英語やロシア語など、オランダ語以外の外国語の研究が行われるようになり、蘭学はやがて「洋学」と呼ばれるようになりました。
蘭学の歴史『蘭学者の弾圧』
(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト 出典:Wikipedia)
①シーボルト事件の発生
日本に西洋の学問・技術を積極的に伝えたオランダ商館の医師がもたらした影響は大変大きいものでした。
その中でも、1823年(文政6)に来日したシーボルトは、当時の日本の蘭学者や幕府に大きな影響を残しました。
シーボルトは『日本』や『日本植物誌』などを著し、日本という国をヨーロッパに積極的に紹介していき、日本にも多くの門下生を抱えました。
しかし、1828年(文政11)9月、任期を終えたシーボルトが帰国する際、伊能忠敬が作成した日本地図など、当時国外に持ち出すことを禁じられていた物が彼の荷物から多く出てきたのです。
これにより、シーボルトは国外追放され、多くの門下生が処罰されてしまいました。この事件を「シーボルト事件」といいます。
この事件をきっかけに、幕府による蘭学者への束縛が始まるのです。
②政府弾圧『蛮社の獄』
そして1839年(天保10)、高野長英や渡辺崋山らが江戸幕府の鎖国政策を批判したため、幕府に捕らえられるという言論弾圧事件「蛮社の獄」が起きました。
蘭学と蘭学者が弾圧を受けたことで、幕府内の保守派と開国派の対立が垣間見ることになりました。
蘭学の歴史『蘭学から英学へ』
①蘭学は国防のための学問
蘭学によって栄えた西洋学術は、諸外国との交渉にも役立てられましたが、時代が進むにつれ、直接的に諸外国との交渉をするようになりました。
鎖国とは違い、他の国と関わることが多く増えたことによって、蘭学は自然科学などを学ぶ学術から一転して、国防(軍事)のための学問として研究が行われるようになったのです。
国論が<鎖国VS開国>という対立をみせるなか、蘭学は開国派の学問でした。
しかし、実際には幕府によって国や藩の軍備を充実させるために利用されていきました。
②開国。西洋文化の流入
しかし、国論が開国派へと傾いていくとオランダ語以外にも外国語が伝えられ、特に英語が広まっていきました。
そして、日本の鎖国が解け開国されると、盛んに西洋文化が日本に入ってきました。
開国後、しばらくはそれまで通り蘭学が中心的な立ち位置にありましたが、だんだんと英学(英語による学問)が盛んになり、その地位を譲ることになりました。
英学が栄えていくのと反比例して、蘭学はその影響力をどんどん弱めていったのです。
主な蘭学者と蘭学塾
(現在の適塾 出典:Wikipedia)
江戸時代から明治初期まで、欧米諸国の文化や学問、技術を伝えた蘭学。
それらを学んだ代表的な蘭学者たちと、蘭学塾を紹介しましょう。
①杉田玄白「天真楼」
(杉田玄白 出典:Wikipedia)
杉田玄白は蘭学医として、前野良沢、中川淳庵らとともにオランダ語の人体解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』として刊行しました。
また、開校時期は不明ですが、私塾「天真楼」を開き、多くの門下生に蘭学を教えました。
②大槻玄沢「芝蘭堂」
(大槻玄沢 出典:Wikipedia)
杉田玄白と前野良沢の弟子である大槻玄沢は、1788年頃に江戸に「芝蘭堂」を開き、多くの門下生の育成に励みました。
また、蘭学の入門書『蘭学階梯』を著し、蘭学者としての地位を確かなものにしました。
③シーボルト「鳴滝塾」
ドイツの医師シーボルトが1824年に長崎で開いた「鳴滝塾」も、多くの門下生を抱え、蘭学が教えられました。
④緒方洪庵「適塾」
(緒方洪庵 出典:Wikipedia)
日本の近代医学の祖として知られる緒方洪庵によって1838年、大阪で開かれた「適塾」は幕末から明治維新にかけて多くの優秀な人材を世に出しました。
また、「適塾」は現在の大阪大学・慶應義塾大学の源流のひとつとしても知られています。
まとめ
✔ 鎖国時代に貿易していたオランダから日本に伝来した西洋の学問や技術の総称を「蘭学」という。
✔ 8代将軍徳川吉宗によって蘭学が国内で扱われるようになった。
✔ 杉田玄白、前野良沢らによって人体解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳書『解体新書』が刊行される。
✔ 英語やロシア語などの外国語の研究が行われるようになり、蘭学は「洋学」と呼ばれるようになる。
✔ 「シーボルト事件」や「蛮社の獄」によって蘭学と蘭学者に影響が及ぶ。
✔ 明治になると、蘭学は段々と地位を英学に譲ることになる。
✔ 蘭学者は蘭学塾(私塾)を開き、多くの門下生に蘭学を教えた。