幕末に大活躍した坂本龍馬。坂本龍馬を好きな人はとても多いです。
その理由は様々ありますが、幼少期には落ちこぼれと言っても過言ではない人物だったにもかかわらず日本のことを考え、自分の私利私欲では無く様々な偉業を成し遂げたことも坂本龍馬のファンを作る理由の一つです。
今回は、そうした坂本龍馬が考え出した『船中八策(せんちゅうはっさく)』について、わかりやすく解説していきます。
目次
船中八策とは
(坂本龍馬 出典:Wikipedia)
船中八策とは、1867年(慶応3年)に坂本龍馬がまとめた8箇条から成る新国家構想のことです。船中八策は、坂本龍馬が長崎を出発して上京している間の船の中で後藤象二郎に伝えたものです。
中身は、大政奉還、海軍拡張、公議政体、親兵設置、法典制定、幣制改革など集権的な統一国家を構想するための内容が書いてありました。
ここからは詳しく説明していきます。
船中八策の背景と流れ
(黒船来航の様子)
①ペリー来航と開国
1853年のペリー来航をきっかけに日本は開国をおこないます。
これまで、強い大国だと思っていた中国はアヘン戦争の結果、イギリスに支配され植民地化され酷い状態だったため、日本も同じ状況にならないように鎖国政策を緩め、ついに開国に踏み切ります。
下田と函館の2港を開港するのです。
②ハリスと日米修好通商条約
日本を開国してからは、日本に多くの外国人が来ていました。
しかし、貿易などはおこなっておらず、ただ開国をしただけの状態でした。そこで、アメリカ総領事のハリスと江戸幕府大老の井伊直弼との間で、1858年に日米修好通商条約が締結されます。
この条約の締結によって日本中が大混乱に陥ることになります。
まず、関税自主権がないので、外国製の安い商品が大量に日本に入ってきており日本の産業は打撃を受けます。また、領事裁判権を認めているため外国人が日本で罪を犯すことが増え、治安が悪化していきました。これらが、不平等と言われ批判される大きな内容です。
しかし、坂本龍馬は別のことを考えていたと言われています。坂本龍馬の注目したことは、開港した港です。
日米修好通商条約で開港した港の位置は、長崎、神奈川、新潟、函館、兵庫でした。
④坂本龍馬が注目した『開港した港の問題点』
さて、坂本龍馬が注目した開港した港に関してですが、皆さんは何かに気が付きますか?
答えは、開港した港の位置です。
日米修好通商条約で開港した港に日本地図で印をつけてみるとわかりやすいです。なんと、日本が江戸を中心に包囲されるように開港しているのです。
ここから、アメリカを始め、列強の国々は日本を植民地にするために日米修好通商条約を結んだのではないかと疑うのです。
⑤日米修好通商条約の結果
日米修好通商条約の結果、日本では尊皇攘夷運動が展開されることになります。
日本が大混乱になってしまったのはアメリカとの間で日米修好通商条約を結んだからである。このような不平等な条約を結ばせてきた外国人を追い出せという攘夷の動きに発展するのです。
また、この条約は天皇の許可を得ずに結ばれた条約であり天皇の意見を無視したものだとして天皇を大切にしようと考える尊皇の考え方が生まれます。
この二つの考え方が合わさり尊皇攘夷という考え方に変化していくのです。
⑥坂本龍馬の尊皇攘夷運動への考え
坂本龍馬は、剣術の免許皆伝者でもあり、剣術に優れた人物でした。
しかし、外国のピストルが日本に入ってくると戦いの方法が変わると砲術を学び始めるのです。
このような頭の良い人であり外国の技術の高さを認めていた坂本龍馬なので、尊皇攘夷が上手くいかないことを見越していました。
⑦坂本龍馬の動き
その後、尊皇攘夷運動は失敗に終わり、倒幕への動きが高まります。
坂本龍馬は、倒幕の流れを読み、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允との間の口約束を取り付けます。これは、正式な書面などは無く、坂本龍馬の朱文字が残っていたことと木戸孝允から坂本龍馬に手紙が残っていたことで証明されました。
朱文字とは、坂本龍馬が二人のやり取りを見ており証明しますという内容のものです。これにより、薩長同盟が結ばれ倒幕へと向かいます。
⑧坂本龍馬の思惑
坂本龍馬はなぜ、薩長同盟を結ぶことに奔走したのかというと、大政奉還を実施するためだと言われています。
その証拠に坂本龍馬は薩長同盟が作られた後に、敵であるはずの幕府のもとへ向かい徳川慶喜と謁見しています。
徳川慶喜に幕府と薩長同盟との戦いが始まってしまうので大政奉還をおこなうように説得していたのです。
では、なぜ説得をしていたのかというと、先ほどの日米修好通商条約の開港した港から欧米に日本が狙われていると考えたからです。
日本が幕府側と薩長同盟側が戦争をしていると、日本国内は疲弊してしまいます。
その後に欧米から攻められた場合に対処ができなくなってしまいます。だからこそ、坂本龍馬は日本国内での戦争を終わらせたかったのです。
しかし、事態は最悪の方向に向かいます。
⑨王政復古の大号令と戊辰戦争
徳川慶喜は坂本龍馬の説得に応じ、大政奉還をおこないます。
しかし、それに対して薩長同盟側は、王政復古の大号令を発しています。これには、幕府側の人間も我慢ができず結果として戊辰戦争が起きてしまいます。
こうした流れの中で、坂本龍馬が起草したのが船中八策です。
戊辰戦争後の新国家の構想が描かれていました。
船中八策の内容
下記の内容が船中八策の中に書かかれていました。
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。(大政奉還について)
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。(上下両院の設置による議会政治について)
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。(有能な人材の政治への登用)
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。(不平等条約の改定)
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。(憲法制定)
一、海軍宜シク拡張スベキ事。(海軍力の増強)
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。(御親兵の設置)
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。(金銀の交換レートの変更)(引用:Wikipedia)
船中八策の影響
(慶応3年頃撮影された坂本龍馬像 出典:Wikipedia)
船中八策は、坂本龍馬の手で実現されることはありませんでした。
理由は坂本龍馬が暗殺されてしまうからです。しかし、この船中八策の考え方は明治時代につながりました。
明治時代の五箇条のご誓文は船中八策を基にして作られた文章です。
特に、坂本龍馬は外国の技術の高さを認めており、日本は海外から学ぶべきだとして、知識を世界に求めることが五箇条のご誓文の中に組み込まれていました。
そして、平和を愛する坂本龍馬らしく戦争では無く話し合いで物事を決めていくという内容も作られていました。
坂本龍馬の考えていた新国家構想はこのように明治時代まで残っていました。
そして、最後まで坂本龍馬が心配していた日米修好通商条約の不平等な部分に関しては、坂本龍馬の弟分とも言える、坂本龍馬が認めた、陸奥宗光が領事裁判権の撤廃に成功しています。
まとめ
✔ 船中八策とは坂本龍馬が考えた新国家構想案である。
✔ 船中八策は、明治時代の五箇条のご誓文に影響を与えている。