日本の重要な転換期である明治時代。
そんな明治時代の初期、明治維新の時期に出された版籍奉還は、時代の転換期だからこそ、大政奉還や廃藩置県などと知識が混ざってしまう用語です。
今回は、間違えやすい版籍奉還について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
版籍奉還とは
版籍奉還とは、明治時代初期、1869年(明治2年)に行われた政治改革のことです。
それまで、藩主が治めていた版(土地)と籍(人民)を朝廷に奉還(返上)し、また各藩の藩主は、知藩事という役職に変更になりました。
これだけでは、わかりにくいので詳しく見ていきましょう。
版籍奉還が行われた背景
①概要&大政奉還との違い
版籍奉還前、江戸時代では各地は藩によって支配されていました。そして、各藩を幕府が統治するという地方分権が進んでいました。
しかし、地方分権が進んでいるということは、朝廷や政府が管理しにくく、中央集権化するために版籍奉還の実施に踏み切りました。
江戸時代末期におこなわれた、大政奉還と混同してしまう人が多いですが、大政奉還は徳川慶喜が政権を朝廷に返上した出来事です。政権とは、行政権、立法権、司法権などのことです。そのため、版籍奉還と大政奉還は異なるものです。
②地方分権ではなぜいけないのか?2つの理由
地方分権は、現在の日本でもおこなわれていることです。なぜ、当時は地方分権ではいけなかったのでしょうか?
第一に、税収が少なくなっていたからです。当時全国には3000万石の石高がありました。しかし、藩主が治めている状態では藩が民衆から税を徴収していました。
そのため、政府が徴収できる税は、800万石。税収を増大させるためにも中央集権化を進める必要があったのです。
第二に、軍事権を政府が握れなかったことです。各藩の軍事権は藩主が握っていました。これでは、日本軍として統一された組織を作ることは難しかったのです。
江戸時代末期に、ラクスマンやペリーの来航など外国船が日本に来る機会も増えており、万が一戦争になった場合、対応ができない状態だったのです。
江戸時代末期には坂本竜馬も中国とイギリスが戦争をおこなっていた状態などを把握しており、外国を警戒していたという話も残っています。
これら2つのことから、明治政府は富国強兵と中央集権というスローガンを掲げて地方分権を終わらせていきます。
版籍奉還の目的
政府は、江戸時代末期に結んだ不平等条約の改正を考えており、外国に認めてもらうためにも、外国に対抗するためにも中央集権、富国強兵をスローガンとして掲げていました。
江戸時代までの支配体制では、明治政府の指示や施策が各地まで伝わりにくく、反対運動なども起こることが予想されます。そのため、日本がひとつに、一枚岩になることを狙っていました。
完全な中央集権を目指して明治政府は廃藩置県を実施することを決定していました。
廃藩置県とは、版籍奉還の後に行われる政策で、藩を廃止して都府県を設置する政策です。都府県を治めるのは政府から派遣された都府県知事です。
これにより、中央からのトップダウンで様々な政策を実施できるようになります。
しかし、江戸時代に戦働きの報酬として徳川家からもらった土地を簡単に手放すことはできないはずです。手放さないだけならばまだしも、反乱が起きる可能性もあります。
そのため、廃藩置県の前に抵抗感の少ない版籍奉還を実施したのです。予想通り、版籍奉還の段階では大きな反対は起こりませんでした。
版籍奉還の内容・発案者
版籍奉還の内容は、説明してきた通り、藩主の治めている土地と人民を天皇に返すことです。では、藩主は何もすることがなくなるのかというと、そうではなく、知藩事という名前に変わります。
結局は、かつての藩主が治めていくことになるので名前が藩主から知藩事に変わっただけということができます。
版籍奉還の発案・実施を決めたのは『大久保利通』と『木戸孝允』の2名です。大久保利通は薩摩藩、木戸孝允は長州藩の人間です。
明治時代の最初の時期は、倒幕に尽力した薩摩、長州の両藩が力を持っていたためにここでも、薩摩藩と長州藩の出身者が決定したことがわかります。
そして、他の藩が版籍奉還に従いやすいように、まずは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の4つの藩が版籍奉還に従います。
4つの力のある藩が版籍奉還に従ったことで他の小さい藩はこの動きに従い版籍奉還を順次おこなっていきます。
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また、各藩は戊辰戦争で多大な戦費を出費していたために、藩を今まで通りに維持することが難しく喜んで版籍奉還に従う藩が多く現れました。
さらに、反対が出そうな藩に対しては、戊辰戦争の功労費用としてお金を渡して予防線を張っています。
版籍奉還の結果
版籍奉還の後、実質何も変わらない状態になり、中央集権は完成したとは言えない状態でした。そのため、次の段階として版籍奉還の2年後に廃藩置県を実施します。
ここでは多くの反対が出ることが予想されたため、薩摩・長州・土佐藩を中心とした御親兵も用意して各知藩事に廃藩置県を伝達しました。
廃藩置県に関しては、極秘で話が進められ、丁寧に根回しがおこなわれていました。
有名な話として、薩摩藩の島津久光は廃藩置県に最後まで反対をしており、廃藩置県が成立すると悔しさのあまり大量の花火を打ち上げたというエピソードが今でも残っています。
この廃藩置県では、版籍奉還以上に反対が起きたという証明にもなります。
廃藩置県では、藩が廃止されて新たに府と県が置かれました。新しくできたのは、3府302県で、元藩主を府知事・県令たちに変えて、政府から知事が派遣される形となりました。
これによって政府の影響力が全国各地に行きわたる中央集権が達成されました。
知藩事たちからの反対も強かったですが、知藩事たちに納得してもらうべく新たに華族という貴族の身分を用意していたことで反対の数を減少させることになりました。
その結果、予想よりも反対の数は少なく済み、スムーズに中央集権化が進みました。
まとめ
・版籍奉還は、1869年に大久保利通、木戸孝義の2名により発案された。
・版籍奉還は、藩主が知藩事と名称が変更になった。
・版籍奉還は、藩の土地と人民を天皇に返上する。
・版籍奉還の2年後に廃藩置県が実施されて中央集権が完成する。