皆さんはベトナムという国をご存知でしょうか?テレビなどでもよく取り上げる有名な戦争のひとつです。
今回はそんな『ベトナム戦争』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ベトナム戦争とは?
(アメリカ軍によるナパーム弾投下の様子 出典:Wikipedia)
ベトナム戦争とは、アメリカと北ベトナムの間で1955年から1975年までの20年間行われた戦争です。
この戦争はアメリカが初めて負けた戦争でもありました。
ベトナム戦争が起こるまでの経緯
(清仏戦争 出典:Wikipedia)
①第二次世界大戦終結までのベトナム
ベトナムは清仏戦争においてフランスが勝った1887年からフランス領インドシナとしてフランスの植民地となっていました。
しかし、フランスは第二次世界大戦において1940年にドイツに降伏してしまいます。
フランス領インドシナの地域は当時南方戦略といって南に軍を進めていた日本のものにするために日本軍が進駐することになりました。これを仏印進駐といいます。
しかし、ベトナムには共産主義者であり、ベトナムの独立指導者であったホーチミンによるべトミンを結成。日本から独立を勝ち取るために抵抗運動をはじめます。
そして1945年には日本が降伏します。
日本軍がいなくなったベトナムではホーチミンが独立宣言をおこない、共産主義国である『ベトナム民主共和国』が誕生しました。
②インドシナ戦争
新しい国としてスタートしたかに見えたベトナムでしたが、これが面白くないのがフランスでした。
フランスはインドシナにまた介入し、南ベトナム共和国というフランスの傀儡国を作り上げました。
これ以降南側にはベトナム共和国、北側にはベトナム民主共和国という2つの国が誕生し、ベトナムは分断されました。
ホー・チ・ミンたち北ベトナムはあくまでも交渉でなんとか国を統一しようとしますが、フランスが妥協しないということが分かると交渉は決裂。北ベトナムとフランスの間で第一次インドシナ戦争が勃発しました。
フランス軍はベトナムに侵攻しますが、土地勘があり、ゲリラ戦を展開しているベトミンに苦戦。8年間にも及ぶこの戦争は北ベトナムの勝利で終わりました。
(ベトミン兵を尋問するフランス軍)
この時国連は北緯17度線を停戦ラインとしてベトナムを南北に分け、ゆっくりと統一を目指していくという流れとなりました。
③北ベトナムの南ベトナム侵攻
ベトナムは北側の社会主義国である北ベトナムと南側の資本主義国である南ベトナムに完全に分断されてしまいました。
この頃世界では冷戦といって社会主義国と資本主義国語の間で様々な対立が起こっており、このベトナムはそんな対立の最前線となっていました。
南ベトナムではゴ・ディン・ジエムという人がアメリカを初め、ざまざまな資本主義国から援助を受け大統領となりますが、この人がかなりひどい人で、独裁政治を敷き、自分に刃向かうものに対して容赦のない弾圧を行なっていました。
(ゴ・ディン・ジエム 出典:Wikipedia)
これに対して怒りの声を上げたホーチミン率いる北ベトナムは、この南ベトナムを独裁政治から解放させるために『南ベトナム解放民族戦線』(通称ベトミン)が誕生し、1960年12月には南ベトナムへの攻撃が始まりました。
この動きに対してアメリカは南ベトナムに軍を送ってこのベトコンの動きを食い止めようとします。
実はアメリカの考えとしてドミノ理論というものがあり、とある国が共産主義国になるとその周辺の国も共産主義国となると考えられていました。
実際、その後ラオスやカンボジアが共産主義国になってしまったため、あながち間違っていませんでしたが、この考えがアメリカのベトナム政策に大きく影響します。
そしてついに『トンキン湾事件』という北ベトナム軍のアメリカに対する軍事攻撃によってベトナム戦争がはじまりました。
【ベトナム戦争の経過】アメリカ敗北の理由とは?
(アメリカ軍による北爆 出典:Wikipedia)
①北爆の開始
戦争の初期の頃はアメリカはベトミンの徹底的なゲリラ戦術に大変苦戦します。
ベトナムにはたくさんのジャングルがあり、ベトミンはアメリカ兵士に対してノイローゼになるまで執拗な攻撃をし続け、アメリカを圧倒していきます。
これに対してアメリカはこの現状をなんとかするために、ベトミンが潜んでいるジャングルごと焼き払おうと北ベトナムに大規模な爆撃を行います。この爆撃のことを北爆といいます。
アメリカは北ベトナムを完膚なきまで潰そうと北ベトナムに対してなんと250万トンもの焼夷弾や爆弾を投下していきます。
ちなみに太平洋戦争で日本に落とされた爆弾の総量が13万トン。
250万トンという量はアメリカがそんなにベトナムを潰しにかかっていたということが目に見えています。
さらにその北爆を指揮していたのがカーチスルメイという人でしたが、この人はあの東京大空襲を指揮した人でもありました。恐ろしいものです。
(カーチス・エマーソン・ルメイ 出典:Wikipedia)
②泥沼化する戦争
北爆を開始してから3年が経過しました。
その後もアメリカは北爆をし続けていましたが、ベトミンは粘り強く抵抗し、アメリカを押し返していました。
これに対してアメリカ国内の世論はどんどん戦争のあり方について疑問視していきます。
さらに北ベトナムによるテト攻勢によって南ベトナムの首都であるサイゴンが陥落されかけます。
アメリカはこの時ジョンソン大統領でしたが、この頃大統領選挙によってジョンソンからリチャード・ニクソンへと変わります。
(選挙戦時のリチャード・ニクソン)
ニクソン大統領はどんどん戦争に批判的になっている国民をなだめるために北ベトナムへの北爆をやめ、軍事支援を縮小します。
一方、ベトナムにおけるアメリカ軍ではとんでもない兵器を使いベトナムを潰しにかかります。それが枯葉剤でした。
(枯葉剤散布の様子 出典:Wikipedia)
枯葉剤によってジャングルの木を枯れさせ、ベトミンに被害を与えようとしましたが、これはれっきとしたジュネーブ協定違反であり、これによってベトナムは深い傷を負うことになりました。
③ベトナム戦争の終結&死者数
(反戦運動を行なう米学生 出典:Wikipedia)
ベトナム戦争に対する批判は日に日に強まり、当時起こっていた学生運動も相まって世界各地で大反戦運動が起こります。
日本でもベ平連という形で反戦運動が起こっていました。
ニクソンは全然負けない北ベトナムを孤立させるために同じく共産主義国であった中華人民共和国に訪問し、中国にベトナム戦争へと介入をやめさせようとします。
この動きをニクソンショックといいます。
しかし、この動きをしても北ベトナムは全然負けない。アメリカはもうこれ以上ベトナムに介入しても意味はないと判断しパリ和平協定を結び、アメリカはベトナムから撤退しました。
(パリ和平協定調印の様子 出典:Wikipedia)
アメリカはその後ウォーターゲート事件が起こり、ニクソン大統領は辞任。アメリカの国内は大混乱しました。
北ベトナムはアメリカがベトナムから撤退したことを聞くと南ベトナムに対して総攻撃を開始。1975年に首都サイゴンを陥落します。
結果、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わり、ベトナムは1976年に北側の主導でついに統一しました。
こうしてアメリカ側の戦死者・行方不明者170万人、北ベトナムの戦死者・行方不明者180万人というおぞましい爪痕を残し、ベトナム戦争は終結しました。
ベトナム戦争のその後
(ホーチミン市にあるホー・チ・ミンの銅像 出典:Wikipedia)
①ベトナムのその後
ベトナム戦争後、統一したベトナムはサイゴンをホーチミン市に改名。北ベトナムによる共産主義化が進められました。
北ベトナムはベトナム戦争による深い傷から立ち直るためにドイモイ政策を開始し、ベトナムはどんどん発展していきました。
ちなみにアメリカとの国交回復は1990年まで待たなければいけません。
②アメリカ側のその後
ベトナム戦争はアメリカが初めて対外戦争において敗北した戦争でした。
アメリカはベトナム戦争に最大54万人。莫大な戦費を使い果たしました。
アメリカはこれ以降、経済が低迷しはじめ、西側諸国における一極的な立場がなくなってしまいました。
まとめ
✔ ベトナム戦争は北ベトナムとアメリカや南ベトナムとの戦争のこと。
✔ ベトナムは元々フランスの植民地だったが、第二次世界大戦が終結すると独立した。
✔ ベトナムは北ベトナムと南ベトナムに分断されてしまい、北ベトナムは南ベトナム解放前線を結成して南ベトナムを統一しようとした。
✔ ベトナムが共産主義になる事を嫌がったアメリカは南ベトナムに支援してトンキン湾事件によってベトナム戦争が起きた。
✔ ベトナム戦争はアメリカの北爆の攻撃を受けたが、最終的には北ベトナムが勝利した。
✔ ベトナム戦争はアメリカが唯一負けた対外戦争であった。