明治時代から戦前までの日本には、国民に兵役の義務がありました。その兵役を具体的に定めた法令が「徴兵令」です。
徴兵というと、ある一定の年齢に達した国民全員が兵役についたようなイメージがあります。ですが、徴兵令が発令された当初はさまざまな免除規定があり、国民皆兵の原則からは程遠いものでした。
今回は、そんな『徴兵令』について簡単にわかりやすく解説していきます。
徴兵令とは?
徴兵令とは、大日本帝国憲法に書かれている国民の兵役義務を具体的に定めた法令です。
満17歳~満40歳の男子を国民軍の兵として登録し、満20歳で徴兵検査を受けさせることが定められています。徴兵検査に合格した者の中から常備兵の兵役に就く者が選ばれました。
常備兵への参加には当初さまざまな免除規定があり、主に貧しい家の次男以下の男子しか徴兵していませんでしたが、しだいに免除規定は制限され、国民皆兵の原則に近づいていきます。
徴兵令は時代とともに改正が重ねられ、1927年には兵役法に引き継がれました。
徴兵令が出されるまでの背景・目的
(明治天皇の東京行幸 出典:Wikipedia)
1868年の王政復古によって成立した明治政府には、当初軍隊がありませんでした。
これでは各地の士族の反乱や外国からの侵略に応戦できません。そのためドイツやフランスなどのように、国家直属の近代的な軍隊を創設することが急務とされました。
そこで、当時明治政府の兵部大輔だった大村益次郎は、近代的な軍隊を創設するために、藩兵の解散や徴兵制の実施、鎮台・鎮守府の設置などの軍事改革に次々と着手しました。
(大村益次郎 出典:Wikipedia)
ところが、こうした改革があまりに急進的であったため、反対派の旧士族の反感を買い、1869年に京都の宿泊先で襲撃され、2か月後に死亡する事件が起きてしまいます。
大村の計画に沿って1870年に制定された徴兵規則は、各藩から1万石につき5人を徴兵することを定めていました。
しかし、これによってできた軍隊は、わずか1万人足らずの政府直轄軍と、各藩の兵から構成された地方軍にすぎず、近代的な軍隊を創設するまでには至りませんでした。
そのため、大村の遺志を受け継いだ山県有朋が中心となって、さらに改革を行いました。
(山県有朋 出典:Wikipedia)
1872年に発せられた「徴兵の詔」と「徴兵告諭」を受けて、1873年に徴兵令が制定されました。
徴兵令の内容
(徴兵逃れの指南書「多くのものが徴兵を逃れようと考えました」 画像引用元)
①条件
徴兵令では、満17歳~満40歳の男子を国民軍の兵として登録し、満20歳で徴兵検査を受けさせることが定められています。この徴兵検査の合格者の中から抽選で常備兵が選ばれました。
常備兵は3年間現役の兵として働いた後、さらに4年間後備兵となり戦時召集に応じることが義務づけられました。のちの改正で常備兵や後備兵の兵役年数は変わりますが、制度の基本的な枠組みは維持されました。
徴兵検査に不合格だった者や、徴兵検査後の抽選から外れた者も国民軍の兵として登録されてはいましたが、事実上は徴兵免除と変わりませんでした。
②免除規定
徴兵令が発令された当初は、次のような場合に常備兵への参加が免除されました。
免除規定
(1) 官庁に勤務している者
(2) 陸軍学校生徒、海軍学校生徒
(3) 官立学校生徒、公立学校生徒
(4) 外国留学中の者
(5) 医術・馬医術を修得しようとしている者
(6) 一家の主人、跡継ぎ
(7) 一人っ子
(8) 父兄の代わりに家を支える者
(9) 養子
(10) 徴兵中の兄弟がいる者
(11) 罪人
(12) 代人料270円を納める者
エリート候補者や一家の長男、裕福な家の者は常備兵を免れることができました。
その結果、常備兵の負担は、貧しい家の次男以下の男子に集中することになりました。
③免除規定の2回の改正
さすがにこの免除規定では甘すぎたこともあり、その後2回の改正を経て免除の条件は制限されます。
特に1883年の改正では常備兵免除は基本的に徴兵検査の不合格者に限定されるようになり、その代わりに徴兵猶予の制度が設けられました。
1889年に大日本帝国憲法が制定されると、徴兵令も全面的に改正されます。これによって、国民皆兵の原則はほぼ実現されました。
ただし、徴兵猶予の他にも、一定以上の学歴をもつ者や師範学校卒業の義務教育教員には、服役上の特権が認められました。
まず、中等学校以上に在学する者は徴兵が猶予され、卒業後は1年間現役兵として服役するだけで予備役の士官や下士官に任命される制度が作られました。また、師範学校卒業の義務教育教員に関しては、6週間現役兵として服役するだけで済む制度が作られました。
しかし、のちに徴兵を避けるためにこの義務教育教員の制度を利用する者が出てきたため、1918年には1年間の現役兵に変更されました。
また、徴兵を避けようと制度を悪用する者に対しては、懲役3年以下の罰則を適用することになりました。
徴兵令の影響
徴兵令は近代国家の特徴の一つである国民皆兵の原則を日本に定着させる役割を果たしました。
国民皆兵の原則はもともと18世紀末のフランスで成立したものです。フランス革命の発端となった1789年7月のバスティーユ牢獄襲撃の直前に組織された民兵が起源で、その民兵が国民軍となり、さらに義務化されて、すべてのフランス国民が徴兵されるようになりました。
これによって、近代国家の軍隊のあり方は大きく変わりました。それまでは国王が傭兵を集めて戦争をしていましたが、これ以降は国民によって組織される軍隊が戦争をするようになります。
明治政府が成立した19世紀半ばには、国民皆兵の原則はヨーロッパ各国で採用されるようになっていました。
明治政府は日本にも国民皆兵の原則を適用しようと考え、徴兵令を発令しますが、当初は日本各地(特に西日本)で大規模な徴兵反対一揆が起こりました。一般に「血税一揆」と呼ばれているものです。
発令された当時の徴兵令では、貧しい家の次男以下の男子に徴兵の負担が集中したため、後継ぎを奪われる農家などが強く反発しました。
しかし、明治政府はこうした一揆を鎮圧しながら、徴兵令に改正を重ねて、徐々に国民皆兵の原則に近づけていきました。
1927年には徴兵令は兵役法に引き継がれました。これがのちに第二次世界大戦中の総力戦体制を支えることになります。
まとめ
✔ 徴兵令は、大日本帝国憲法に書かれている国民の兵役義務を具体的に定めた法令のこと。
✔ 満17歳~満40歳の男子を国民軍の兵として登録し、満20歳で徴兵検査を受けさせることを定めた。
✔ 徴兵検査に合格した者の中から常備兵の兵役に就く者が選ばれた。
✔ 常備兵への参加には当初さまざまな免除規定があったが、しだいに制限されていき、国民皆兵の原則に近づいていった。
✔ 徴兵令は時代とともに改正が重ねられ、1927年には兵役法に引き継がれました。