奈良時代の天平文化と平安時代の国風文化は、律令制度の発展に伴い文化的にも大いに成長しました。
後世への影響も大きく、現代にも残るような文化的影響も多くあります。しかしこの二つの文化には明らかな違いも見られます。
今回は天平文化と国風文化の違い、それぞれの特徴や共通点などについて、詳しく解説していきます。
目次
天平文化と国風文化の違い
天平文化は、8世紀初めから8世紀末にかけての奈良時代に栄えた文化のことです。
一方、国風文化は平安時代の中期頃に栄えた文化のことです。
二つの文化の最も大きな違いは、天平文化が唐の影響を強く受けた国際色豊かな文化であるのに対して、国風文化は日本独自のスタイルを反映して生まれた文化であるという点です。
貴族の服装を見ても、天平文化の頃の服装は「浦島太郎」の乙姫様のような中国風の服装であるのに対し、国風文化はお雛様のような純日本風の和服であることから、二つの文化の背景には中国風であるか、日本風であるかの違いがハッキリと見られます。
天平文化の特徴
(8世紀前半の唐 出典:Wikipedia)
①天平文化は唐のフォロアー
当時の中国、唐は発展の頂点にあった盛唐と呼ばれる時期でした。
そのため世界中の人々が唐を目指し、それぞれの国に政治的・文化的な文物を持ち帰りました。
日本も例外でなく、遣唐使を送り律令制度を学んで取り入れたり、都長安を参考に平城京を造りました。
文化も盛唐の影響を色濃く受けた、国際色豊かな文化でした。
東大寺の正倉院には唐だけでなく、インドやギリシャ・ローマにルーツを持つような宝物が約9000点も収められています。
(正倉院正倉 出典:Wikipedia)
②仏教中心の文化
天平文化の大きな特徴を表す言葉に「鎮護国家思想」という言葉があります。
聖武天皇は東大寺をはじめとして諸国に国分寺・国分尼寺を建立することによって全国的に仏教を広め、仏教によって国をまとめようとしました。
(聖武天皇 出典:Wikipedia)
そして寺院が多く建てられるとともに仏像も多く造られました。
それまでの仏像が平面的で動きの少ないものが多かったのに対し、躍動感のある仏像が生まれました。
これは新しい手法が用いられたことによる技術向上が大きく影響しています。
粘土で造られた塑像は東大寺戒壇院四天王像、そして漆で麻布を貼って乾かした乾漆像は興福寺阿修羅像が有名です。
(興福寺阿修羅像 出典:Wikipedia)
新しい手法によって、西洋や唐の彫刻とも似たような写実的で動きのある仏像が多く造られました。
③国家プロジェクトとしての編纂事業
律令制度が形成されていく中で、朝廷が統治を行うことつまり中央集権体制の正当性を明らかにしようという動きが生まれます。
そこで国史の編纂が進められ、天平文化の頃に完成します。
712年には天武天皇が稗田阿礼に誦み習わせていた「帝紀」「旧辞」を太安万侶が撰録し、『古事記』が完成しました。
さらに720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成しました。
(日本書紀 出典:Wikipedia)
こういったプロジェクトは中国でも行われていたため、中国の史書編纂事業を参考にして行われたものと思われます。
また文学としては史書だけでなく、最初の和歌集である『万葉集』が生まれました。
これは勅撰ではありませんが、天皇から庶民まで様々な人の詠んだ和歌が約4500首も収められているという点で、かなり大きなプロジェクトだったことが窺えます。
国風文化の特徴
①オリジナリティが生まれた国風文化
平安時代も中期に差し掛かると、唐はそれまでのような力をすでに持ってはいませんでした。
また国内の律令制度も文化も、唐のものを自分達なりに昇華して、独自のスタイルを確立しつつありました。
894年、菅原道真の提案によって遣唐使が廃止となったのはその象徴的な出来事です。
こうした世の中の流れによって、国風文化はオリジナリティにあふれたいわゆる日本的な文化となりました。
具体的には貴族の邸宅の建築様式である寝殿造や衣冠束帯・十二単のような貴族の衣服、「鳥獣戯画」や「伴大納言絵巻」のような大和絵など、優美で柔らかい印象の色彩や造形が特徴です。
(十二単 出典:Wikipedia)
私たちがお雛様などで知る、いわゆる「日本の貴族」といったスタイルはまさにこの国風文化の頃のスタイルです。
②女性が最も活躍した文化
国風文化で最も発展したジャンルは文学です。
そしてその中心にいたのが貴族という点では天平文化も国風文化も共通していますが、国風文化では特に女性貴族たちが活躍しました。
清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』、また多くの和歌を残した和泉式部はあまりにも有名ですが、他にも多くの女流文学作品が生まれました。
(源氏物語絵巻 出典:Wikipedia)
彼女たちは「女房」と呼ばれる人でした。
皇后の身の回りの世話をしたり、教育係を務めるのが「女房」の役割です。この皇后となる人は当時、藤原氏が外戚となるべく嫁がされた娘たちでした。
つまり当時摂関家として強大な力をもっていた藤原氏が、娘たちのために優秀な「女房」を仕えさせ、その「女房」たちが宮廷で綴ったのが国風文化の文学なのです。
日本史の中でもこれほど女性が中心となって活躍した文化は他にありません。
彼女たちがこの時代に多くの作品を残した理由は、仮名文字の使用にあります。仮名文字とはひらがなのことです。
当時男性は主に漢字を用いていましたが、それに対し漢字の草書体をもとに作られた仮名文字は主に女性によって使われました。
文学という点では天平文化の頃に『万葉集』で花開いた和歌がさらに発展し、905年には最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しました。
(古今和歌集 出典:Wikipedia)
③極楽浄土を目指した人々
天平文化と同様、国風文化も仏教の影響を大きく受けています。
この頃仏教では1052年に末法元年を迎え、世の中は釈迦の教えが衰える末法の時代へ突入すると言われていました。
当時、前九年の役などの戦乱が起きたり疫病が流行するなどしていたことも相まって、人々は不安を抱いていました。
そこで極楽浄土を願う人々の間で浄土教が流行し、慶重保胤による『日本往生極楽記』のような往生伝が出されたり、貴族は阿弥陀堂を建てました。
藤原頼通によって建てられた平等院鳳凰堂は国風文化を代表する阿弥陀堂建築です。
(平等院鳳凰堂 出典:Wikipedia)
また、阿弥陀堂には衆生来迎図や阿弥陀如来像が収められたので、阿弥陀如来像を造るのにこれまで以上のスピードと効率が求められました。
(銅造阿弥陀如来坐像 出典:Wikipedia)
そこで仏師定朝は、複数の材を組み合わせて造る寄木造の技法を用いて、分業によって大量の仏像を造ることができるようになりました。
天平文化と国風文化の共通点
二つの文化の共通点として、文化の担い手が貴族であったということがまず挙げられます。
信仰のために寺院を建てたり仏像を造らせたり、文学作品に触れられるほどの教養を得ることができたのはやはり貴族だからこそと言えます。
国中に仏教が広められたり、『万葉集』に庶民の詠んだ和歌が収められてはいますが、庶民が文化を楽しんだり生み出すところまではいきませんでした。
また、仏教が大きく関わっていることも共通しています。
天平文化で国家プロジェクトとして仏教を全国に広めることが実現したので、国風文化の頃には仏教の思想が全国的に波及していました。
そして作風を工夫しつつ多くの仏像が生まれたというのも共通点と言えるでしょう。
まとめ
✔ 天平文化は奈良時代、唐の影響を受けながら発展した国際色豊かな貴族文化のこと。
✔ 国風文化は平安時代、日本独自のスタイルを確立して発展した優美な貴族文化のこと。
✔ 天平文化は仏教による国造りという「鎮護国家思想」の影響をうけ、寺院建築や仏像が多く造られた。仏像は躍動感のある作風が特徴。
✔ 天平文化は中央集権国家の正当性を主張するために『古事記』『日本書紀』といった史書が作られた。
✔ 国風文化は宮廷貴族特に女性が活躍して、多くの女流文学が生まれた。
✔ 国風文化は末法思想の影響で浄土教が流行した。極楽浄土を目指す人々によって阿弥陀如来像が多く造られた。
✔ どちらの文化も貴族が担い手となって、仏教を軸に発展した。