1590年に秀吉は天下統一を成し遂げます。
これによって戦国時代は終わりを迎えるのですが、その少し前に惣無事令という戦をやめなさいという法律を出して戦を止めようとしていました。
一体どんな法律だったのでしょうか?
今回はその『惣無事令(そうぶじれい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
惣無事令とは?
(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)
惣無事令とは、1585年(天正13年)頃に関白に就任した豊臣秀吉が諸大名に対して私戦を禁止した法令のことです。
この惣無事令に違反した大名はことごとく秀吉によって討伐され、のちの秀吉の天下の足がかりとなりました。
惣無事令が出された背景
①秀吉の天下統一事業
1582年本能寺の変が起こり信長がこの世を去るとその代わりに明智光秀を倒した羽柴秀吉(豊臣になるのは1585年から)がめきめきと勢力を拡大していきます。
明智光秀を倒した秀吉は1583年には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を倒し、1585年に四国征伐を行い長宗我部家を屈服させ四国を平定します。
さらに越後の上杉、広島の毛利家、さらには小牧長久手の戦いの後には徳川家が秀吉に臣従。日本の大部分が秀吉の支配下に置かれるようになりました。
さらに秀吉は自身の権力を増大させるために五摂家の一つである近衛家の養子となり、天皇から関白の位を与えられ、さらに公家のトップである太政大臣に就任します。
この頃になるともはや秀吉と対等に大名なんてもう存在しなくなり、秀吉自身は最後の天下統一の大仕上げを行うようになっていきます。
②刀狩令の発令
こうして秀吉はどんどんと勢力を拡大していきますが、秀吉にはある悩みの種がありました。
戦国時代には一向一揆という一向宗の門徒たちがたびたび蜂起しており、天下統一しても戦争がなくならない可能性がありました。
これに対して秀吉は1585年から刀狩令という刀などの武器を取り上げる法律を制定し始めます。
「でもこんな法律普通にちょろまかせるでしょ?」と思いますが、実はこの刀狩令を発令した口実に大仏を作ることというのが含まれていました。
そのため民衆たちは「大仏作るのだったら別にいっか」となり、素直に武器を提出し始めます。まぁ、大仏なんて初めから作らないんですけどね。
さらに秀吉は刀狩令の他に喧嘩禁止令や海賊禁止令を発令。徹底的に秀吉の領地内での戦争をなくしました。
③そこで惣無事令の発令!
1585年当時まだ秀吉の支配下になかった九州の大名に対して天皇の下に私戦を禁止する法令が出されます。
注目ポイントは天皇の下に出されたということ。
農民上がりの秀吉がこの惣無事令を出した場合、全国の大名は「農民上がり如きになんで従わなくてはいけないのか!」と思い、なかなか秀吉に従うことを良しとしません。
そこで日本で一番偉い天皇の下に惣無事令を出すことによって大名を無理矢理支配下に置こうとしました。
関白自体が天皇の補佐をする役職ですからね。
惣無事令の内容
惣無事令は上にも書いた通り戦争を開ける法律ですが、惣無事令というのはどちらかといえば諸大名への勧告という意味合いが強いものでした。
例えば、のちに紹介しますが、島津家が九州の大友家を攻めていた時に秀吉から
「天皇の命令に基づいて書き送ります。九州でいまだ戦乱が続いているのは良くないことである。国や勢力争いに関しては双方の言い分を聞き追って裁定を下す。そのため今すぐ戦争をやめなさい。さもなければ直ちに征伐するぞ」
という手紙の時に惣無事令という内容が書き記されています。
秀吉の領国内ではすでに刀狩令が出されているため心配はなかったのですが、九州や関東や東北は未だに戦争が続いていたためこれを抑えようとしたのが惣無事令の内容でした。
惣無事令を破った大名たち
①九州征伐
1585年に九州地方に対して惣無事令が発令されます。
しかし、これで九州地方では戦争がなくなることはありませんでした。
それもそのはず、実はこの時九州では島津家が九州統一寸前まで到達していました。
島津家はこの惣無事令に対して「なんで九州と全然関係のない秀吉が九州の戦争に介入しているんだよ!」となったはずです。
しかし、秀吉はこの時島津家によって滅ぼされかけていた大友家がこの土壇場で秀吉に臣従したことによって九州征伐を決意。惣無事令に違反しているとして約20万の軍勢で九州に出兵しました。
島津家は少ない軍勢で戦い、最初の頃は戸次川の戦いで豊臣軍を撃破していましたが、多勢に無勢。
最終的には本拠地がある薩摩を攻められる直前に島津家は降伏。薩摩・大隅を領有することを許される代わりに秀吉の下に降りました。
秀吉が島津家を完全に滅ぼさなかったのは、秀吉に降伏すれば少なくとも滅ぼすことはないというイメージを与えたかったのでしょう。
②小田原征伐
こうして九州を制圧した秀吉、これにノリノリになり始めたのでしょうか?
秀吉は九州征伐から2年後の1587年に関東・東北の諸大名に対しても惣無事令を発令するようになります。
はっきりいうとこの頃から惣無事令の役割が戦争を無くすことから秀吉に従わなければ潰されるという脅しに変わっていきます。
しかし、この時に反抗したのが関東地方をほとんど制覇した後北条家でした。
秀吉からしてみたらこの後北条家を倒して関東地方を秀吉のものにすれば実質天下統一になったもの同然。天下統一に王手がかかっていたのでした。
そんな中、後北条家が秀吉の裁定を受けたのにも関わらず真田家の名胡桃城を攻撃する事件が起こります。
これに対して激怒した秀吉は21万の大軍で小田原征伐を開始。後北条家の城を続々と落城させ、ついに本拠地である小田原城を落とし、ついに後北条家は降伏します。
当主の父である北条氏政は切腹となり、当主の北条氏直は高野山に追放され北条早雲以来続いた後北条家は滅亡しました。
③奥州仕置
こうして関東地方を制圧した秀吉は小田原征伐後に宇都宮城において宇都宮仕置という東北の大名の領地を決めた裁定を行います。
さらに秀吉は1590年に東北地方に対して惣無事令が発令した1588年以降の戦いを無効化してその奪った領地を没収する奥州仕置を行い始めます。
これによってこの惣無事令に違反した伊達政宗は72万石に減らされ、また一揆を煽ったとしてその72万石と会津を没収され、代わりに岩出山(仙台市)57万石に移封されました。
また、小田原征伐に参加しなかった葛西家や大崎家などの東北の大名たちは秀吉によって改易。
これが原因で葛西大崎一揆や仙北一揆などの一揆が勃発して抵抗勢力の不安要素が残りましたが、この奥州仕置によって日本中全ての大名が秀吉の下に降り、秀吉の天下統一事業は完全に達成。
本能寺の変から8年、応仁の乱から123年目にしてついに日本は秀吉の下で天下統一を果たしました。
秀吉の天下統一のその後
秀吉が天下統一を果たしたことによって日本ではこれ以降戦争は起こることはありませんでした。
しかし、秀吉は日本だけでは飽き足らないようになり、明(中国)を征服しようと画策して、まずはその従属国であった朝鮮に1592年と1597年に出兵します。これがいわゆる朝鮮出兵です。
しかし、この朝鮮出兵は上手いことは行かず失敗。秀吉の死とともに撤退しました。
秀吉が死んだことによって発令した惣無事令は無かったことにされ、日本は関ヶ原の戦いという日本の今後を左右する重要な戦に突入していくことになっていくのでした。
まとめ
✔ 惣無事令とは豊臣秀吉が発令した私戦を禁止した法律のこと。
✔ 惣無事令は秀吉が関白に就任して天皇の名の下において発令された。
✔ 惣無事令を破った島津家・後北条家は秀吉から大軍によって征伐され、後北条家においては滅亡した。
✔ 惣無事令に違反した東北の諸大名の裁定である奥州仕置によって秀吉の天下統一が果たされた。
✔ 天下統一ののち秀吉は朝鮮に出兵したが失敗し、秀吉の死後惣無事令は無かったことにされ関ヶ原の戦いが起こってしまった。