幕末を語るうえで欠かせないのが『尊王攘夷』です。
天皇を敬い外国を追い出せという考え方が、やがて幕府を倒して日本の政治の仕組みを根本から変える明治維新へとつながります。
今回は、尊王攘夷が生まれ、盛んになった背景や尊王攘夷派が起こした行動、尊王攘夷運動のその後などについて簡単にわかりやすく解説します。
目次
尊王攘夷とは
尊王攘夷とは、幕末の開港前後から盛んになった主張です。
尊王は『天皇を尊敬し敬うこと』。攘夷は『外国勢力を日本から追い出せ』という主張です。
尊王攘夷に基づく行動を尊王攘夷運動といいます。
この運動は、幕府だけが日本全国を治めたり外交を行ったりすることや鎖国をやめて開国することを批判する政治運動となりました。
尊王攘夷の誕生の背景
①日米和親条約
1854年、アメリカのペリーとの間で日米和親条約が結ばれました。
この条約で下田と箱館を開港することを約束しました。
その結果、鎖国が崩れました。
②日米修好通商条約
1858年、大老井伊直弼は、朝廷の反対を押し切って幕府の独断で日米修好通商条約を結びました。
孝明天皇の許可(勅許)を得ることなく調印したことで、尊王論を唱える人々は天皇をないがしろにしていると井伊直弼を批判しました。
また、開港だけではなく貿易まですることに対して、外国勢力の追い出しを主張する攘夷派の人々も幕府を批判しました。
条約が結ばれると、開港地の近くに居留地が作られイギリスをはじめとする欧米の人々が日本に来るようになりました。
③安政の大獄と桜田門外の変
1858年から1859年にかけて、大老の井伊直弼は幕府を批判する人々に対して一斉に弾圧を加えました。安政の大獄です。
前水戸藩主の徳川斉昭や一橋慶喜などの大物も隠居・謹慎させられました。
井伊直弼の強引なやり方は強い反発を招きました。
1860年、江戸城に登城する途中の井伊直弼が水戸藩を脱藩した浪士たちによって暗殺されました。(桜田門外の変)
今でいう総理大臣が首相官邸に行く途中で暗殺されたわけです。
総理大臣級の人物さえ守れなかった幕府の力はどんどん落ちていきました。
④開国・貿易の影響
(神戸外国人居留地 出典:Wikipedia)
幕末の日本で行われた貿易は居留地貿易といいます。
居留地から動けない外国人に変わって日本人の商人たちが全国各地から品物を集めて外国人に売っていました。
外国商人が高く買ってくれる品物を中心に、日本人の商人が高値で品物を集めます。すると、全国各地で物価が上がりました。
物価高は人々の生活を直撃。物価が高くなったのは外国人のせいだ!こうして、人々の間に攘夷論が受け入れられやすい機運が高まったのです。
⑤公武合体への反発と坂下門外の変
井伊直弼の死後、幕府は自分の力だけでは政権を維持するのが難しくなりました。
そこで、天皇の力を借りようと考えます。
幕府と朝廷が協力して政治を安定させようという考え方を公武合体といいます。
公武合体派は孝明天皇の妹、和宮と徳川家茂の結婚を進めます。
結婚はうまくいきましたが、尊王攘夷派は天皇を政治利用していると幕府を批判。責任者の安藤信正を坂下門で襲撃しました。(坂下門外の変)
またしても、総理大臣級の人物を守れなかった幕府の威信はおおきくぐらつきました。
尊王攘夷派の行動
尊王攘夷派は、日本国内に入ってきた外国人に攻撃を加え攘夷を実行します。
実際に行われた攘夷運動をみてみましょう。
①ヒュースケン暗殺事件(1860年)
アメリカ総領事ハリスの通訳として雇われたオランダ人のヒュースケンが薩摩浪士に暗殺されました。
②東禅寺事件(1861年)
水戸浪士がイギリス仮公使館となっていた東禅寺を襲撃した事件。
公使のオールコックはなんとか難を逃れました。
③生麦事件(1862年)
薩摩藩の島津久光が江戸から帰る途中の行列をイギリス人が横切りました。
その無礼をとがめて薩摩藩士がイギリス人3人を殺傷しました。
幕府は賠償金を支払いましたが、薩摩藩は謝罪を拒否。薩英戦争へとつながりました。
④イギリス公使館焼打ち事件(1862年)
長州藩士の高杉晋作や井上馨、伊藤博文らが品川御殿山に建築中のイギリス公使館を焼打ちしました。
のちの初代内閣総理大臣も、血気盛んだったんですね。
⑤下関事件(1863年)
幕府が攘夷派に押されて攘夷決行を約束させられた時、尊王攘夷派の中心だった長州藩が下関海峡を通行中の外国船を砲撃した事件。
⑥薩英戦争(1863年)
生麦事件の報復としてイギリスが薩摩を攻撃して始まった戦争。
イギリス艦隊は鹿児島を砲撃しますが、薩摩側の反撃によりイギリス側にも死者が出ました。
和解後、薩摩藩はイギリスに賠償を支払いイギリスとの関係を深めました。
⑦四国艦隊下関砲撃事件(1864年)
別名、馬関戦争。下関事件の報復です。
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃・占拠。長州藩は四国間隊に屈服しました。
尊王攘夷のその後
①攘夷は不可能
攘夷を決行し、外国を追い出そうと攻撃をしましたがいずれも失敗に終わりました。
特に、薩摩藩や長州藩は外国勢力との戦いで敗北し、外国との力の差を思い知りました。
このことから、攘夷にこだわることは不可能であるとの考え方が両藩の主流になります。
②尊王攘夷から尊王倒幕へ
攘夷に伴う一連のトラブルで幕府は問題解決ができず、外国の圧力に屈して賠償金を支払うだけでした。
このまま幕府に日本の政治を任せていてもよいだろうか、という考え方が長州藩だけではなく薩摩藩でも芽生えます。
いっそ、幕府を倒して天皇中心の国にするべきではないかと考えた人々は、尊王攘夷より尊王倒幕へと方針を転換しました。
第一次長州征伐で敵同士だった薩摩藩と長州藩は土佐浪士坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、倒幕を進めるようになります。
まとめ
✔ 尊王攘夷は、天皇を敬い外国を追い出せという主張のこと。
✔ 天皇を軽視したとして無勅許で条約に調印した井伊直弼は桜田門外の変で暗殺された。
✔ 安藤信正は天皇を政治利用したと反発を受け、坂下門外の変で失脚した。
✔ ヒュースケン暗殺事件など外国人を狙った事件が多発した。
✔ 長州藩は四国艦隊の砲撃で、薩摩藩は薩英戦争で外国との力の差を実感した。
✔ 尊王攘夷を唱えていた人々は、攘夷の不可能を悟り、尊王倒幕へと主張を変えた。