【尊号一件とは】簡単にわかりやすく解説!!事件の背景・内容・その後の影響など

 

そろそろ今上天皇が退位して新しく皇太子殿下が天皇に即位することとなりますね。

 

実は、この譲位が行われるのは光格天皇以来の出来事なのです。

 

しかし、光格天皇の立場は非常に複雑であり、本来は天皇になることができる立場ではないのにも関わらず天皇となった人でもありました。

 

今回はそんな養子から天皇になったことが原因で起こった揉め事『尊号一件(そんごういっけん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

尊号一件とは?

(光格天皇 出典:Wikipedia

 

 

尊号一件とは、江戸時代後期である1788年、光格天皇が父の閑院宮典仁親王に尊号を贈ろうとしたことについて幕府と朝廷が揉めた事件のことです。

 

この事件は当時の老中「松平定信」が反対したことによって起こりました。

 

この事件によって将軍の怒りを買ってしまった松平定信は失脚してしまい、寛政の改革は終結しました。

尊号一件が起こった背景「江戸時代の朝廷」

 

尊号一件について解説する前に江戸時代における朝廷の動きについて見ていきましょう。

 

①江戸時代は拘束の厳しい時期

江戸時代における朝廷や天皇といえば、簡単に言うと「不自由」

 

その当時、江戸時代では天皇の政治的な権利は禁中並公家諸法度によって制限され、肝心の石高(天皇の場合は禁裏御料)もわずか3万石のみでした。

 

 

こうなると天皇としては何もできなくなり、現在と同じように幕府のお伺いを立てながら日本国民のために祭事を行う日々を送っていたのです。

 

②尊号一件が起こる前の朝廷

尊号一件が起こる前、朝廷では第119代天皇の光格天皇が即位していました。

 

しかし、この光格天皇は今みたいに天皇の息子ではなく、前の天皇であった後桃園天皇の養子として即位していた、いわゆる代打のような存在でした。

 

ちなみに、これは余談ですが、天皇がなくなったときに送られる「贈り名が今みたいに〇〇天皇となった」のは彼の時代からです。

 

それ以前は〇〇院のような形でした。小倉百人一首は天皇が詠んだ歌の作者名は後鳥羽院とか順徳院みたいに〇〇院という形が取られていますね。

 

尊号一件が起こった理由と事件の経過

①親の立場が低すぎる!光格天皇の憂鬱

尊号一件が起こった理由。それを紐解くには光格天皇が後桃園天皇の養子として即位したことにありました。

 

なぜかというと、もし養子出身の天皇の場合だったら養父の立場が高いのはもちろんですが、実父の場合は立場はそのままですから親よりも子の方が立場が上という、非常に変な状況となってしまいます。

 

さらに禁中並公家諸法度では、光格天皇の父の立場である親王よりも五摂家の方が立場が上だったことが、さらにこの状況の変化に拍車がかがってしまい・・・

 

光格天皇はこのねじれの状況をなんとかするために、実父である閑院宮典仁親王に対して太上天皇(上皇)という尊号と呼ばれる称号を送って立場を自分よりも上にしようとしたのでした。

 

しかし、禁中並公家諸法度が制定されている江戸時代。

 

この行為を行うには幕府の許可を貰わなければならなかったので、公家を江戸に派遣して許可を仰ごうとしたのでした。

 

②松平定信の大反対

1788年、光格天皇によって派遣された公家は幕府に上奏。幕府に対して典仁親王に尊号を贈る許可を貰おうとしました。

 

しかし、これに対して当時幕府の権力を握って寛政の改革を行なっていた松平定信が「天皇になっていない人に対して尊号を贈ることなんてこれまでなかったからダメ」と拒否します。

(※ちなみに、天皇になっていないけど天皇の父に対して尊号を贈った先例は2件あります)

 

 

(松平定信 出典:Wikipedia)

 

 

これによって尊号を贈りたい朝廷と幕府の間で軋轢が生じるようになり、親王に対して無理やり尊号を贈ることを決定しました。

 

③尊号一件の終結

こうして幕府と朝廷との間で尊号をめぐる争いが勃発しました。

 

しかし、これに対して典仁親王の弟であり元関白として朝廷を支えていた立場である鷹司輔平は、朝廷は幕府には敵わなく、このままグダグダと争いが続けば典仁天皇の身が危ういとして、なんとかこの事態を収めようと奔走していました。

 

しかし、定信は朝廷の人事決定権は幕府にあるとして尊号を贈ることを上奏した公家を処罰します。

 

さらに、尊号一件において朝廷派として各地を奔走していた高山彦九郎も処罰し、強硬手段に乗り出しました。

 

 

(高山彦九郎 出典:Wikipedia)

 

 

ところが、幕府側でも御三家でありながら勤王派であった水戸藩の取り成しもあり、典仁親王に対して尊号を送らない代わりに1000石の加増などの朝廷の待遇改善によって両者が手打ちました。

 

こうして尊号一件と呼ばれる対立は終結することになりました。

 

尊号一件のその後

 

この尊号一件で一番不利益を被った人。それは光格天皇でもなく典仁親王でもなく、なんとこの尊号一件に猛反対していた松平定信だったのです。

 

その謎を解くにはこの頃の幕府の実情についてを見なければなりません。

 

次はそんな尊号一件によって松平定信がどうして不利益を被ったのかを見ていきましょう。

 

①松平定信の失脚

朝廷と幕府が尊号について争っている中、もう1人尊号を父に贈りたいと思っていた人がいました。

 

その人こそが当時将軍であった徳川家斉だったのです。

 

 

(徳川家斉 出典:Wikipedia)

 

 

彼の立場は尊号贈ろうとした光格天皇と立場が似ており、元々家斉は一橋家という御三卿のうちの一つの家の出身でした。

 

そのため、光格天皇と同じように自分よりも父の方が立場が下という「あべこべな状況」をどうにかしようと父であった一橋治済に対して大御所という尊号を与えようとしたのでした。

 

 

しかし、この尊号一件によってこの計画が頓挫してしまうこととなります。

 

だってそうでしょ?一応天皇は日本にとっては幕府よりも上の存在。

 

例え、どんなに禁中並公家諸法度で縛り付けても権威というものがありますし、この頃になると国学も発展して高山彦九郎みたいな勤王派の武士も増えていました。

 

そのため、幕府が朝廷を差し置いて父に対して尊号を贈った場合「幕府は天皇と朝廷を舐めている!」と思われてしまいます。

 

定信からすれば改革を行っている立場でしたので、大御所という厄介な役職を増やしたくなかったと思いますが、これによって定信は元々馬が合わなかった家斉から嫌われるようになり挙げ句の果てにはクビとなってしまいした。

 

こうして定信が行なっていた寛政の改革は未完全のまま終わったのでした。

 

 

②朝廷の権威復活

尊号一件は朝廷側の譲歩という形で終わりましたが、世間の人や特に勤王派の武士から見たら、この尊号一件は朝廷が幕府に対して抗議を行なったという形となります。

 

さらに、将軍が朝廷側に配慮して将軍の父に尊号を贈らなかったこともあり、ここから庶民たちは「あれ?朝廷って幕府よりも権威があるのかな?」と思われるようになりました。

 

そして、その動きは国学の発展や尊王思想へとつながっていき、倒幕運動という大きなビッグウェーブへとつながっていくことになるのでした。

 

 

まとめ

 尊号一件とは、光格天皇が父の閑院宮典仁親王に尊号を贈ろうとした時に老中の松平定信が反対した出来事のこと。

 この尊号一件という事件は朝廷側の譲歩によって終結した。

 この事件によって父に尊号を与えられなくなった将軍徳川家斉は松平定信をクビにして定信が行なってきた寛政の改革は失敗に終わった。

 この事件から朝廷の権威は徐々に復活していき、そして最終的には国学の発展や尊王思想となり倒幕へとつながっていくこととなった。