地頭は中世において非常に重要な存在ですが、では新補地頭(しんぽじとう)とはどういう存在なのでしょうか。
普通の地頭とは違うのか、違うとしたらどこが違うのか。
今回はそういった点を踏まえ『新補地頭』について、時代の流れに沿ってわかりやすく解説していきます。
目次
新補地頭とは
新補地頭の定義としては、鎌倉時代の承久の乱(1221年)後、新たに補任された地頭となっています。
「新たに補任」で「新補」となるわけですね。
この新補地頭という言葉は、本補地頭(ほんぽじとう)に対する概念として使われます。つまり、地頭というカテゴリーの中に、新補地頭と本補地頭の区別があります。
では、本補地頭と新補地頭の違いはどういうものなのでしょうか。時代の流れにそって、両者の違いを説明していきます。
本補地頭、新補地頭が現れるまでの背景
(源頼朝 出典:Wikipedia)
①本補地頭
源平の戦いが終わり、平氏が滅亡した1185年、今度は源頼朝と義経の兄弟間での対立が表面化してきます。
頼朝は義経を追討することを名目に、後白河法皇から守護・地頭の設置の権限を得ます。これにより、頼朝は全国的な支配を実現しました。
地頭は、荘園・公領ごとに設置されました。
この当時は地頭が設置されたのは、平家没官領(平家の没落に際し、国家に没収された所領)などの謀反人所領に限定されていました。職務内容としては、荘園・公領の管理、年貢徴収などを担当していました。
この時に設置された地頭を、新補地頭と区別して本補地頭といいます。
②承久の乱
(後鳥羽天皇 出典:Wikipedia)
守護と地頭の設置により鎌倉幕府の力が強くなり、朝廷勢力が弱まっていた時期、その挽回を目指したのが後鳥羽上皇です。
1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣(命令)を発します。これが承久の乱のきっかけです。
これに対し、北条政子の呼びかけにより御家人たちは北条氏のもとに結束します。北条泰時・時房を大将として幕府軍を京都に派遣し、6月には幕府軍が京都を制圧し、幕府側が勝利します。
乱後、後鳥羽上皇は隠岐に流され上皇が治めていた所領も没収しました。朝廷監視のため、六波羅探題を京都に設置するのもこの時です。この承久の乱によって、西日本における幕府支配も強化されます。
③新補地頭と新補率法
鎌倉幕府は承久の乱後、没収された上皇方の所領3000余りに戦功のあった御家人を地頭として任命しました。
その後、地頭の収益や土地支配権をめぐって、地頭と荘園領主や国司との間に紛争がおこりました。
そこで、幕府は1222(貞応元)年4月、守護・地頭の守るべき職務を定め、5月には六波羅探題に西国の守護・地頭の不法行為の取り締まりを命じます。
ついで、1223(貞応2)年6月、新補率法を定めました。
これは新たに定めた地頭の収益率でその内容は、田地11町ごとに1町の給田(免田)、反別5升の加徴米、山野河海からの収益の半分でした。
また、下地の進止(土地そのものの管理・処分・譲与など)は禁止されました。
承久の乱後に新しく置かれた地頭のうち、得分(収益)の先例がなくこの新補率法の適用を受けたものを新補地頭と呼びましたが、後年これを承久新置の地頭の総称として用いるようにもなりました。
④新補率法の目的
承久の乱後の地頭の大量補任に際して、幕府はこれより先、新地頭補任の地における所務・得分の先例について調整させました。
しかし、先例としての得分(つまり、今までの収益)がきわめて少ない地や、得分の先例のない処の新地頭があるという問題がありました。
そのため、それらの地頭得分を規定する必要を認めて、この新補率法が生まれました。
したがって、新補率法は新地頭であっても、先例として所務・得分があるところは適用範囲外とし、所務・得分の先例がない新地頭を主に適用対象としました。
本補地頭と新補地頭のややこしいところ
先ほどの説明であれ?と思った方もいるのではないでしょうか。非常にややこしい概念なので、説明する方も一苦労です(笑)。
先ほどの説明に疑問を持った人のために、またややこしい話になりますが、より正確に本補地頭と新補地頭について説明します。
本補地頭は、より正確にいうと「御家人本来の所領を地頭に補任するという形で安堵(保障)された地頭」という意味です。これに対し、恩賞として新たに与えられた地頭は、新恩地頭といいます。
そして、新補地頭はより正確に言えば、3つの意味を持っています。
新補地頭の意味
❶ 文字通り、「新たに補任された地頭」という意味。
❷ 承久の乱後、新たに補任された地頭。
❸ 新補率法の適用を受けた地頭。
❶の意味は非常に広義的な概念です。❶は、ほぼイコールで新恩地頭と同じ意味です。2つ目、3つ目にいくにつれ、より細かい意味で使われています。このあたりの事情がややこしい要因です。
しかし、承久の乱後、多くの新恩地頭の補任が行われた結果、主として❷の意味での地頭をさす称呼となり、それ以前に成立した幕府が始まって以来の地頭を、本領安堵・新恩にかかわらず本補地頭と総称するように変化しました。
要するに、こういった面倒な説明があるので統一したということですね。
説明が長くなりましたが、承久の乱前の地頭を本補地頭、乱後の地頭を新補地頭と覚えておけば試験には対応できます。
いずれにしても、本補地頭と新補地頭は区別する意味で使うという点は確かです。
地頭のその後
地頭の職権を通じて、地頭は国司・荘園領主の命令を拒否し、荘園や国衙領の侵略を行うようになりました。
特に承久の乱以降には、荘園公領の領主権を侵犯し、土地支配権の根本を変革する動きが積極化し、地頭の領主化が進みました。
荘園領主と地頭の二重支配のもとで双方の領主権の対立が激化すると、これの解決のために地頭請(地頭が荘園領主に対し、年貢進納を請け負う制度)や下地中分(荘園を地頭と荘園領主で分割支配すること)などの方法がとられました。
しかし、現実にはこれらの方策はかえって地頭単独の領主化を推進させ、やがて荘園的土地制度の崩壊を早める一因となりました。
南北朝時代以降、守護領国が発展するとともに、地頭は有力な守護の支配下にくみこまれることとなり、その実態的意義を失いました。
しかし、「地頭」の語は近世に至っても、領主一般を指すものとして用いられていたようです。
まとめ
・新補地頭とは、鎌倉時代の承久の乱(1221年)後、新たに補任された地頭のこと。
・承久の乱前の地頭を本補地頭、乱後の地頭を新補地頭といって対立的に使われる。
・地頭はその後、領主として力を伸ばし、荘園制の崩壊を早める一因となった。