近代史で必ずいっていいほどでるソ連。このソ連はとある革命によって誕生するのです。
今回はそんなソ連が誕生した『ロシア革命』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
ロシア革命とは?
(ロシア革命"2月革命" 出典:Wikipedia)
ロシア革命とは、1904年と1917年にロシア帝国で起きた革命のことです。
この革命によってロシア帝国は滅び、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生しました。
革命前のロシア『ロシア経済の発展とロシア第一革命』
①ロシアの近代化
北の巨大国家ロシア。しかしこのロシアという国はフランスやイギリスなどの国と比べるととてつもなく遅れていました。
そんなロシアが近代化に努めるのはクリミア戦争というイギリスとの戦争に敗れてからです。ロシアはイギリスに負けないように近代化を推し進めるため、古臭い制度の一つであった農奴解放令を発令。ロシア国内に数多くいた農奴を解放して国民を自由にします。
ロシアはその後シベリア鉄道の開業などのインフラを整備し工業化を進め、ロシアは毎年5%の経済発展を成し遂げる経済大国に成長していきました。しかし、農奴をいきなり解放したせいで少なくとも生活の保障を受けていた元農奴たちは行き場を失い餓死してしまう事態に発展します。
さらに、農奴は解放されても皇帝の独裁で成り立っている政府はそのまま。国民が政治に参加することは不可能でした。
また、急激な経済成長が原因で資本主義特有の貧富の格差がどんどん増大していき、労働者や農民の生活は苦しくなっていくばかりでした。
②血の日曜日事件とロシア第一革命
ロシアの国内情勢は貧富の格差が広がり、皇帝が暗殺されるなど非常に政治は不安定でしたが、それ以上にロシアの国内情勢が悪化する出来事はさらに起こってしまいます。1904年に起こった日露戦争です。
日露戦争の結果は日本の勝利に近い引き分けに終わりましたが、ロシアは勝つことはなく、さらにこの戦争に莫大な費用をかけたため、国民の生活はどんどん悪化。ロシア国内で大暴動が起こりはじめます。
そんな大暴動の中でも特に有名で規模が大きかったのは血の日曜日事件でした。
血の日曜日事件って名前がなんか物騒ですが、これはロシアの神父が国民の生活を改善してほしいために起こしたデモです。しかし当時のロシア皇帝ニコライ2世はこれを武力で鎮圧。
(血の日曜日事件"行進する群集" 出典:Wikipedia)
国民はこの皇帝の命令に怒り狂い、ロシア第一革命が起こりはじめます。
ロシア国内の労働者と農民が立ちあがったことによってこの革命はロシア全土に広がり、憲法の制定による立憲君主制の確立と国会の開設、さらには労働者の権利の制定などの要求をします。
さすがにこれを認めなければいけないと思ったニコライ2世はこの要求をほとんど譲歩。
ロシアにおいて議会が始まり、なんとかロシア第一革命は終結してロシアに平和が訪れました。
ロシア革命の原因『ロシア経済の破綻と十月革命』
(サラエボ事件"暗殺風景" 出典:Wikipedia)
こうして一応平和が訪れたロシア。しかし、再びロシア国内で大暴動を起こすきっかけとなる出来事が起こってしまいます。
1914年のサラエボ事件です。これを機に第一次世界大戦が勃発。ロシアは汎スラヴ主義というスラヴ民族の国を独立させようという運動を支持して協商国として第一次世界大戦に参加します。
しかし、ロシアは軍隊を仕上げに仕上げてきたドイツに連戦連敗。戦死者が増えるばかりで再びロシア国民の生活は苦しくなってしまいます。
最初の頃は戦争だから仕方ないというので我慢していたものの、タンネンベルクの戦いで大敗北したことが原因でついに国民の怒りは大爆発。
ロシアの今後を決定したロシア二月革命が起こります。
①ロシア二月革命
(1917年2月に行なわれた抗議デモの様子 出典:Wikipedia)
戦争の状況が悪化するとロシアの首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)でストライキとデモが頻繁に行われていきます。
この時のデモはこれまでのデモとは規模も形も大きく異なり国内の全ての産業がストライキによってストップ。国内の経済は崩壊し、軍隊もこのストライキに加担している有様でした。
「このままでは命が危ない!」そう感じたニコライ2世は皇帝を退位。ロマノフ朝は崩壊しこうして300年続いたロシア帝国は終焉を迎えました。
その後、ロシアでは議会政治によって政治を行っていく臨時政府が誕生し、貴族や富豪によって政治をしていくブルジョワ政治が始まります。
しかし、その一方首都であるペトログラードにはソビエトという労働者たちの会議が権力を握っていくことになりロシアは2つの権力が存在している二重権力の状態となりました。
②十月革命とソ連の成立
こうして誕生した臨時政府でしたが、やはり貴族や富豪などが政治を行なっていたということは労働者にしたら「ふざけんじゃねぇ!」ってなってしまいます。
さらに、もう負けが確定しているようなものである第一次世界大戦の参戦を継続。ロシア国内ではまだ国民たちの苦しい生活が待っていました。
そのためソビエトたちは臨時政府と激しく対立。内戦が起きる寸前までとなってしまいます。
そんな時、とある革命家が亡命先のフィンランドからロシアに帰還していました。その名もレーニン。ロシア第一革命からの革命家で共産主義国家樹立のために奔走していた人です。
(ウラジーミル・イリイチ・レーニン 出典:Wikipedia)
レーニンはロシアに内乱を起こし戦争を継続できなくしようとしているドイツの狙いを見て密かにペトログラードに帰還し、ボリシェビキや赤軍を創設し、臨時政府とついに対戦します。
しかし、結局臨時政府にまともな軍隊がいなかったことによってあっさり臨時政府の本部がある冬宮は制圧。臨時政府は崩壊してソビエト政権が誕生することになります。
そして1918年にはロシア=ソビエト社会主義共和国連邦が成立。さらに1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立してついにロシアに社会主義国家が誕生しました。
(ソビエト連邦の国旗)
ロシア革命の影響
①シベリア出兵
ロシアに社会主義国家が誕生したことはたちまち世界に広がり、各地で社会主義革命が起きるのではないかという懸念の声が広がっていきます。
そのため、社会主義革命が国内で広まらないようにするために世界各国の列強が1918年からロシア革命に干渉して革命を失敗に終わらせようとし始めます。これをシベリア出兵といいます。
特に日本はこのシベリア出兵に力を入れており、7万3千人という人数をシベリアに派兵してシベリアを日本のものにしようとしますが、1922年にソ連が成立すると日本は撤退。シベリア出兵は失敗に終わりました。
②ソ連の強国化
ロシアは数年前は皇帝がトップにいるという古臭い政治制度だったものがわずか2年の革命で社会主義という新しい考え方を取り入れた国家となりました。
レーニンはその後、ロシア共産党をトップとするプロレタリア独裁を行い始め国家全体の農業と産業の国有化を推し進めていきます。
そして1925年にレーニンが亡くなり、スターリンがトップの座に君臨するとソ連はスターリン独裁という新たな体制になりそして第二次世界大戦に臨んで行くことになるのです。
まとめ
・ロシア革命は国内の生活が苦しくなったことを受けて1904年と1917年に起きた。
・ロシアは第一次世界大戦に負け、国内の不満が大爆発し、ニコライ2世が退位しロマノフ朝が滅亡した。
・その後ロシア国内では臨時政府とソビエトの二重権力が生まれ、内戦に突入したのち1922年にソ連が誕生した。
・日本は革命を受けてシベリアに出兵した。