平安時代といえば、漢字だらけの朝廷の役職を覚えるのすごく大変ですよね。
筆者も経験があるので、非常によくわかります。
それに教科書だけではイマイチ内容も不透明で、何だかよくわからないんですよね。
今回解説していく『押領使(おうりょうし)と追捕使(ついぶし)』は、その典型的な例です。
少しでも違いが良くわからなくて頭を抱えているあなたのために、わかりやすく解説していきたいと思います。
目次
押領使と追捕使の共通点
平安時代の役職は、仕事の内容が若干かぶっていることがあるとお話しました。
今回の押領使と追捕使には、役割としては実はそんなに違いがないのです。
押領使と追捕使の主な仕事内容としては・・・
〇山賊や海賊といった輩を取り締まり、反乱を鎮圧する軍隊・警察の役割がある
というところで共通し、さらに・・・
〇どちらとも令外官(りょうげかん)という官僚
いわゆる、現在の警察署や県警のトップ的役割を果たす人物のことを指すのです。
しかし、やることは同じでも、押領使と追捕使では、ちょっとずつ異なる点があるんです。
押領使と追捕使の違い
では、軍隊を率いる指揮官的役割でもあり、警察的な役割を果たす「押領使」と「追捕使」では、何が違うんでしょうか。
こちらでまとめてみました。
三者の違いは・・・・
✔ 誕生した時期が違う
押領使・・・平安時代初期に置かれた
追捕使・・・平安時代中期ごろに置かれた
✔ 管轄区域が違う
押領使・・・東日本に配置された地元密着型の任務を遂行することが多かった
追捕使・・・西日本側に配置され、国を超えて職務を遂行することもあった
✔ 職務内容が違う
最初は両方とも臨時の官でしたが、
押領使・・・職務は兵を率いたのみで実際の戦闘には関わっていない。やがて指揮官へと変化
追捕使・・・国を超えて実際の戦闘にも参加
✔ 常設後の任命される人物が違う
押領使・・・国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任し、やがて土地の豪族を任命することが主流となった
追捕使・・・常設されるようになると、国司が追捕使を兼任したり、地方の豪族が任命されたりしていた
それでは詳しく見ていきましょう。
押領使について詳しく解説!
では最初に、押領使について詳しく見ていきましょう。
①押領使は平安時代初期に誕生
押領使は、実は追捕使よりも先に誕生した役職で、8世紀ごろの平安時代の最初あたりに誕生しました。
②東日本の守護者だった
押領使は、平安京が置かれていた京都の東側を管轄していました。
東側というのは、現在の中部地方や関東地方といった東日本側のことです。
この時代に、東日本を守っていた押領使が鎮圧した反乱があります。
それは、10世紀ごろの下総で勢力を振るっていた平将門が起こした乱、平将門の乱です。
そしてこれを鎮圧したのが、押領使であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。
③実は戦闘に参加はしない!
押領使は、あくまで兵を率いて反乱を鎮圧するだけの存在でした。なので、実際の戦闘にはかかわっていないところが特徴です。
やがて、移動させる兵士の指揮官として戦闘を指揮する職務へと変わっていくのです。
④平将門の乱以降、常設となった役職
平将門の乱は、藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。
押領使は、反乱がおきる前までは臨時の役職でした。
しかし、この乱以降は臨時ではなくなり、常設の役職として定められるようになります。
押領使は、警察の中で言うところの本部長的な役割をはたしています。
警察ドラマを見ていると、捜査会議とかにそういう人物いますよね。あんな感じです。
④武芸に長けた者が任命されるようになる
③でもお話の遠い、押領使は○○警察本部長の人とイメージしていただくのが一番近いです。
押領使の人は、それぞれの地域の官僚たちの中で、最も強いと判断された人が抜粋されています。
やがて常設された押領使を任される人物は、国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任するようになります。やがて土地の豪族を任命することが主流となりました。
ちなみに、荘園にも押領使がおり、荘園内の治安の統制と行っていたそうです。
追捕使について詳しく解説!
では、似たような追捕使という役職はどんなものなのでしょうか。
一緒に見ていきましょう。
①追捕使は後発の令外官
追捕使は、押領使よりも後発の10世紀に誕生しました。
10世紀といえば、平安時代の中期にあたります。
②追捕使は西の守護者だった
追捕使の管轄はどこだったかというと、実は押領使と真逆の西側!
平安京から見た西側といえば、関西や中国地方以西のことです。
承平・天慶の乱がここで再登場するのですが、平将門の他に、ほぼ同タイミングで伊予の官人・藤原純友(ふじわらのすみとも)という人物が、反乱を起こしました。
藤原純友は瀬戸内海各地の島で海賊行為を働き、最終的に反乱を起こしたのは、瀬戸内海を中心とした中国・四国地方の広域にわたってでした。
これを鎮圧したのは、追捕使である小野好古(おののよしふる)という人物でした。
③承平・天慶の乱で常設された現場寄りのポジション
追捕使も、承平・天慶の乱を機に、常設の役職となりました。
押領使と違い、追捕使は実際の反乱や事件現場に出向き、自らも戦いに参加をし、反乱を鎮圧していました。
そのため、指揮官的役割を果たしていた押領使よりは、少々現場寄りのポジションだったそうです。
④国司や豪族が任命されるようになる
これまで臨時職として回っていた追捕使ですが、常設されるようになると、国司が兼任したり、地方の豪族が任命されたりと、こちらにも変化が発生していきます。
④後世に役職が変化していく
押領使と同じく、追捕使も地元官僚の中で最も強い人物が任命されていました。
しかし追捕使はその後、惣追捕使(そうついぶし)という役職へ変更されていきます。
惣追捕使は国ごとに配置されるようになり、自分の国全体の警察や軍事業務を任されるようになりました。
その後、鎌倉時代には守護へと変化していくのです。なんだか、交番や地元の警察の様な役割という感じですよね。
まとめ
✔ 押領使も追捕使も、山賊や海賊といった人たちを取り締まる、軍隊・警察の役割があった。
✔ どちらとも令外官という官僚職。最初は臨時職だった。
✔ 誕生した時期が違い、押領使は平安時代初期、追捕使は平安時代中期ごろに誕生。
✔ 管轄区域が違い、押領使は東日本に配置され、追捕使は西日本側に配置された。
✔ 追捕使はその後、国ごとに配置されるようになった。
✔ 職務内容が微妙に違い、押領使は兵を率いたのみで実際の戦闘には関わっていないが、やがて指揮官へと変化した。追捕使は国を超えて実際の戦闘にも参加した。
✔ 常設後は任命される人物が少々異なる。押領使は国司や郡司の中で武芸に長けた者が兼任し、やがて土地の豪族を任命することが主流となった。
✔ 追捕使は国司が追捕使を兼任したり、地方の豪族が任命されたりしていた。