鎖国が終わった日本とロシアが結んだ条約『日露和親条約』は、現在でも議論になっている北方領土問題の原点でもあります。
今回はそんな『日露和親条約』について、わかりやすく解説していきます。
目次
日露和親条約とは
(川路 聖謨 出典:Wikipedia)
1855年(安政2年)2月7日、日本とロシアの間で結ばれた条約を「日露和親条約」といいます。
日本側は江戸幕府の筒井政憲と川路聖謨、ロシア側はプチャーチンによって話し合われました。
(※日露和親条約は下田条約とも言われています)
日露和親条約が結ばれるまで
①日本の開国
長らく鎖国を続けてきた日本ですが、1853年(嘉永6)ペリー提督が乗ったアメリカ黒船が浦賀に来航します。
アメリカは日本との貿易を実現するために、日本に開国を迫ったのです。
その後の1854年(嘉永7)日米和親条約が結ばれ、この条約によって日本は下田と箱館を開港し、日本の鎖国は終わりを迎えたのです。
②プチャーチン来航
(ロシア側全権 プチャーチン 出典:Wikipedia)
ロシアはそれまで1792年(寛政4)根室にラスクマンが、そして1804年(享和4)に出島にレザノフが来航し、日本に開国を迫っていました。
しかし、このとき日本は開国やロシアとの貿易を始めることはありませんでした。
1852年(嘉永5)に当時のロシアの皇帝だったニコライ1世は「アメリカがペリー提督を日本に送って開国を迫ろうとしている」という情報をキャッチします。
アメリカと同じく、ロシアは日本とその周辺諸国への進出を狙っていたので、遅れをとらないよう、すぐにプチャーチンを日本に送りました。
プチャーチンが日本に着いたのは、ペリー提督が浦賀に着いた約1ヶ月後でした。
日本との開国と交易をめぐる話し合いは、1854年(嘉永6)の1月から長崎で始まっていましたが、そんなときにロシア対オスマン帝国・イギリス・フランスの連合軍による「クリミア戦争」が始まってしまったのです。
この戦争によって、ロシアはイギリス、フランスと敵対関係になってしまいます。
ロシアの艦隊が日本にいることが敵国に知られてしまっては、いつ攻撃されるかわかりません。
実際、イギリスはロシアの艦隊が日本の長崎にいるという情報をキャッチし、長崎に向かいました。
難を逃れるために、プチャーチン率いるロシアの艦隊は話し合いを中断し、一度ロシアへ帰ることになりました。
しかし、この年の3月31日に日本とアメリカで日米和親条約が結ばれることを知ると、再びプチャーチンは日本へやってきます。
そして、幕府に対して自分たちとも条約を結ぶよう迫ったのです。
こうして、1855年(安政2)2月7日、日本とロシアの間で「日露和親条約」が結ばれました。
日露和親条約の内容
(日露和親条約の原文 出典:Wikipedia)
プチャーチンと江戸幕府の筒井政憲と川路聖謨によって結ばれた日露和親条約。
その条約の内容とは、どのようなものだったのでしょうか。
①開港
日露和親条約では、日本に貿易にやってきたロシア船が停泊し、燃料などを補給するための港として箱館・下田・長崎を開港しました。
②国境の決定
条約が結ばれるまでは、北海道の先にある北方の島々には、日本人・アイヌ民族・ロシア人が雑居していました。
しかし、日露和親条約では、日本とロシアの国境を北方にある択捉島とウルップ島(得撫島)の間と定め、樺太については両国の主張が対立してしまったため国境を決めず、これまで通り雑居地にすることとなりました。
③その他
日露和親条約では、その他にも以下の事柄が日本とロシアの間で定められました。
その他の内容
・ロシアの外交官を日本に駐在させる。
・裁判権は日本とロシアどちらにも規定される。
・日本はロシアに対して、最恵国待遇をする。
日露和親条約後の日本
日露和親条約が結ばれたことで、その後の日本にはどのような影響がもたらされたのでしょうか。
現在まで議論が続く「北方領土問題」もこの条約が大きく関係しています。
①樺太・千島交換条約
日露和親条約が結ばれてから間もなく江戸幕府が終了し、明治政府が立ち上がります。
そして、1875年(明治8)樺太千島交換条約がサンクトペテルブルクで結ばれました。
日露和親条約では雑居地として、日本人もロシア人も住めると定まっていた樺太では紛争が絶えず、江戸幕府は頭を抱えていました。
江戸幕府が終了し、明治政府になってからもこの問題は続き、ついにロシア側と交渉を始めたのです。
こうして日本とロシアの間で「樺太全島はロシア領土」「千島列島は日本領土」とすることを定めた樺太・千島交換条約が結ばれました。
②北方領土問題
現在でも議論が難航している「北方領土問題」とは、現在は実質的にロシアが支配している択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島の4つの島々を北方領土とし、日本がロシアに対して返還を求めている問題です。
日本は日露和親条約で日本とロシアの国境を、北方にある択捉島とウルップ島の間と定めたのを根拠として、択捉・国後・歯舞・色丹の4つの島は日本の領土だと主張しています。
一方、ロシアはこの4つの島は千島列島に属する島だから、第二次世界大戦後に日本と連合国の間で結ばれたサンフランシスコ平和条約で日本は所有を手放したのだと主張しています。
日本側の日露和親条約を根拠とした主張に対してロシアは「クリミア戦争で国内も大変だったなか、プチャーチンが条約を早く結ぼうと勝手に判断したものだから、日露和親条約の国境の話は無効だ」という意見を出しています。
しかし、プチャーチンを派遣したニコライ1世は択捉・国後・歯舞・色丹の4つの島を日本の領土と認めて良いとしていたことが明らかになったと、ロシアの研究者の間で意見が強くなっています。
ですが、未だに両者の意見が食い違い、現在でも議論と交渉が続いています。
まとめ
・日露和親条約は1855年(安政2)2月7日、日本とロシアの間で結ばれた。
・ペリー来航に乗じてロシアのプチャーチンも来航し、条約締結を迫った。
・条約では、箱館・下田・長崎を開港させ、また日露の国境を択捉島とウルップ島の間と定め、樺太については国境を決めず、雑居地にすることになった。
・1875年(明治8)日露間で「樺太全島はロシア領土」「千島列島は日本領土」とすることを定めた樺太・千島交換条約が結ばれた。
・北方領土問題とは、ロシアが支配している択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島の4つの島々を北方領土とし、日本がロシアに対して返還を求めている問題。
・日本は日露和親条約を根拠として、4つの島は日本の領土だと主張している。
・ロシアは、4つの島は千島列島に属する島だから、サンフランシスコ平和条約で日本は所有を手放したのだと主張している。