【内閣制度とは】簡単にわかりやすく解説!!明治時代の太政官制・創設の歴史など

 

今の時代でもニュースでいろいろ話題に上がる内閣ですが、実は今の内閣と明治時代の内閣は違うことを知っていましたか?

 

今回はそんな明治時代の内閣制度について、わかりやすく解説していきます。

 

そもそも内閣とは?

(第4次安倍内閣 出典:首相官邸ホームページ

 

 

内閣はわかりやすく言うと政治を行う役職のことです。

 

現在の日本の憲法である日本国憲法第五章には『内閣は行政権を担当する最高の合議体として、国会(立法)、裁判所(司法)と並ぶ憲法上の機関である。』と書かれており、三権分立のひとつである行政権という権利を持っている唯一の役職です。

 

そして、その内閣のトップが皆さんがご存知の内閣総理大臣です。

 

内閣の主な仕事は法律の案を作成したり、諸外国との外交交渉したり、天皇の国事行為の助言と承認をしたりするなど日本の政治方針を決めたりしています。

 

よく同一視されることが多い国会は内閣から出された法律案にOKを出すか出さないかを決めたり、国の予算を決めたりしています。

 

明治時代の政治制度の成り立ち

明治維新を成し遂げだ後、江戸幕府に変わり日本をになう事になった薩摩藩や長州藩などを中心とした明治新政府は、列強諸国に対抗するような強い国づくり(富国強兵)を作り始めました。

 

 

しかし、明治時代の最初の頃は日本は内閣制ではなく『太政官制』というものを採用していました。

 

内閣制度の前のシステム『太政官制』

『太政官制ってなんぞや?』となる人もいると思いますが、太政官制というのは太政大臣(だいじょうだいじん)という役職をトップとして、その下に様々な政治の役職をを置いているシステムです。

 

この太政官制の特徴は『祭政一致』『三権分立ではなかった』というところでした。

 

①祭政一致とは

祭政一致とは、宗教と政治が一緒になっている状態の事を指しています。

 

今の時代だったらサウジアラビアとかの中東諸国などがこの状態です。

 

日本の場合は日本神道が政治の中心とされていました。

 

そのことはのちに神道のトップである天皇が日本の主権を持つ事に繋がっていくのです。

 

②三権分立ではない

太政官制は太政大臣がトップで太政大臣が司法・行政・内閣をすべて取り持っていました。

 

また、このころは公家が政治の要職を独占しており、太政官制は江戸時代とあまり変わらないどころか時代を逆戻りしてしまいます。

 

 

内閣の成り立ち!初の創設『伊藤博文』

(初代内閣総理大臣『伊藤博文』 出典:Wikipedia

 

 

1881年10月12日、民衆からの強いリクエストがあって明治天皇は『国会開設の詔(勅諭)』の中で、『10年以内に国会を開設を目指します!』と表明します。

 

 

その表明を受け、同じく政府の中心で立憲君主体制の整備を図っていた、伊藤博文らは古くさい太政官制に替わる新たなシステムを作ろうと考えていました。

 

伊藤博文はさっそく列強諸国の政治システムを学んで内閣制というものに出会います。

 

伊藤博文は帰国したのち、さっそく内閣のシステムを整え日本の内閣制度を作り上げ、伊藤博文は自ら初代内閣総理大臣に就任してこれにより日本の内閣制度が始まりました。

 

明治時代の内閣の仕組み

こうして内閣制は始まりましたが、当時の大日本帝国憲法には内閣のことは書いておらず、内閣の国務大臣についてのことしか書いていませんでした。

 

しかも、憲法第4章55条には『国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス』、同条第2項には『凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス』と書かれていました。

 

つまり、当時の国務大臣は自分で決めるのではなくあくまでも『天皇のお助け役』でしかありませんでした。

 

また、憲法第4章56条には『樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス』と、天皇は政治を枢密院と相談して決めていくと書かれています。

 

そのため、行政の最高決定機関はあくまでも『枢密院』であり、内閣はその認可をもって国政を遂行する機関としての役割しかありませんでした。

 

しかし、こんなよわよわな内閣では作った意味がありません。

 

どんどん法律を改正していきどんどん内閣の力を上げていきました。

 

軍閥政治と政党政治

ところで皆さん資料集で総理大臣の一覧を見たときに「あれ?最初のころ同じ人がやりすぎじゃない?」となった人がいるはずです。しかし、それには訳がありました。

 

今の時代では総理大臣は国会の中で決められ普通は与党のリーダーが任命されることが当たり前になっていますが、昔は違いました。

 

まず、昔は総理大臣は天皇が『総理大臣あんたに任せるからがんばってね』みたいに決めていました。

 

さらに、天皇だけではなく政治のご意見番みたいなポストにいる元老という人が総理を決めるようにになっていました。

 

このような元老のつよい影響下をうけて総理大臣が政治を行うことを俗に軍閥政治と呼びます。

 

総理大臣が同じ人がやっているのはそのせいです。

 

一方で、一部の人は今のように政党中心で内閣を組織しようとするものが出てきます。

 

その人こそ早稲田大学を創立した大隈重信でした。

 

 

(大隈重信 出典:Wikipedia)

 

 

大隈重信は当時もう政党の人々でいっぱいだった国会との連携をとりたい伊藤博文と相談します。

 

大隈重信は伊藤博文の強い支持を受け、初めて軍事系の大臣除く全国務大臣を、大隈がリーダーを務めている憲政党の党員がやっていく事になっていきました。

 

そして、大正時代に入ると『大正デモクラシー』と呼ばれる時代が訪れ軍閥政治は終わりを迎えます。

 

 

その後、原敬の下で本格的な政党政治が始まり現代へと受け継がれていくのです。

 

まとめ

 明治維新直後の政治のシステムは内閣制ではなく太政官制と呼ばれるものだった

 初期の内閣はあくまで枢密院の承認のもとで政治を行っていた

 明治時代では元老の強い影響を受けて総理大臣を選ぶ軍閥政治だったが、大隈重信によって日本初の政党政治が組織され、大正デモクラシーのときに原敬によって本格的な政党政治が行われた。

 

おまけ!戦前の総理大臣の覚え方

 

戦前の総理大臣の名前はよくテストに出ることが多いです。そこで有名な総理大臣の覚え方を載せます。

 

マスターしていい点数を取れるように頑張ってください!

いくやまいまいおおくまやい(伊藤 黒田、山縣、松方、伊藤、松方、伊藤、大隈、山縣、伊藤)

かさかさかざん(桂、西園寺、桂、西園寺、桂、山本)

おおってはだかやき(大隈、寺内、原、高橋、加藤友、山本、清浦)

かわったはわいさ(加藤高、若槻、田中義、濱口、若槻、犬養、斉藤)

おかひろったはやしやこんぺい(岡田、廣田、林、近衛、平沼)

あよこことこす(阿部、米内、近衛、近衛、東條、小磯、鈴木貫)

 

▼詳しくはこちらの記事を参考にして下さい