【室町時代の農民の暮らし】人々の服装は!?農業・商業の発達などの特徴を紹介!

 

守護大名などが力を伸ばしていく室町時代では、農民たちも村単位で団結を深め、農業・商業もともに発達していきました。

 

今回は、食文化や服飾とともに『それら室町時代の農民のくらし』について詳しく解説していきます。

 

農民達の団結

①惣村の形成

守護大名が大きな勢力を築いてきた14世紀後半には、畿内とその周辺では、荘園よりも規模が小さい村を単位に、農民の自主的な結びつきが生まれ、自治組織が生まれます。これは惣村と呼ばれました。

 

惣は総の字と同じように使われ、「すべて・集める」という意味。惣村とは、村に住む農民全体の組織ということです。

 

惣村は、村の守り神を祭る神社で寄合(会議)を開き、全員が一致するまで話し合って村の掟を決めました。この掟を惣掟(村法(そんぽう))といいます。

 

また、このような惣村を構成する村人たちを惣百姓ともいいました。

 

②惣村の発達

室町時代中期には、惣村は領主に代わって重要な役割を果たすようになります。

 

それまで、領主に納める年貢は、領主が行う収穫量の調査に基づき、村人ひとりひとりが納めていました。それが、村が領主と契約を結び、あらかじめ決まった額を村の責任で納める百姓請(地下請)に変わります。

 

また、用水路の修理や、日照りのときの雨ごいは、領主が費用を出していましたが、村が村人全員から費用を集めて行うようになります。

 

農業に必要な山や野原などの共同利用地(入会地)も自ら確保するようになります。村がこのような働きをするためには、村人みんなが厳しい掟を守り、団結することが必要でした。

 

そして、村で犯罪が起こった時も、村人自身が処罰を行ったのです。沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)と呼ばれる指導者を選出し、警察・裁判なども自ら行っていた(地下検断・自検断)ということです。

 

③村人たちの反抗

強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、やがて荘官や領主に対して反抗するようになります。不法を働く荘官の免職や、水害・干害の際の年貢の減免を求めて一揆を結びます。

 

そして、荘園領主のもとに一斉に押しかけたり(強訴)、全員が耕作を放棄して他の領や山林などに逃げ込む(逃散(ちょうさん))などの実力行使をしばしば行いました。現代でいうストライキの農民バージョンといった感じです。

 

また、惣村の有力者の中には、逆に守護などと主従関係を結んで武士化する者もあらわれました。こういった者を地侍といいます。

 

こういった惣村の発達により、荘園領主や地頭などの領主支配は難しくなっていきました。

 

このような惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力に頼りました。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していきました。

 

農業・漁業の発達と生活の変化

①農業の発達

この時期の農業は、生産性の向上によって商品作物の栽培も盛んになり、収穫量の向上と安定化が進みました。

 

栽培技術や水車などの灌漑技術の発達によって、先進地域では稲の収穫が大幅に増えました。

 

水稲の品種改良も進み、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)の作付けも普及。そして関東地方では二毛作、畿内では三毛作が行われるようになりました。

 

肥料も刈敷・草木灰などとともに下肥(しもごえ)が普及し、収穫量の増加と安定化が進みました。

 

また、手工業の原材料として、桑(くわ)・楮(こうぞ)・漆(うるし)・苧(お)・藍(あい)・茶などの栽培も盛んになりました。

 

桑は蚕(かいこ)の餌として重要な作物であり、楮は和紙の原料となります。漆はご存知の通り、漆器の塗料や接着剤としても使われますし、苧の繊維は紡いで糸にすることができます。

 

農村で加工業が発達したこともあり、これらの商品が市場に流通するようになりました。

 

②食文化の発達と服装

こういった農業の発達により、食文化も変化しました。

 

このころの食生活は一日2食から3食へとかわり、禅宗寺院で作られていたうどんや豆腐が一般に広まって、野菜料理も発達し、普及するようになりました。茶の栽培も広がったので、人々は茶商人が路上で「一服一銭」で売る茶を買って飲みました。

 

室町時代の人々の服装は鎌倉時代からさほど変わりません。武士は直垂(ひたたれ)という衣装で上衣は胸辺りできっちり結んで、袴も足首でしっかりと結んでいました。

 

(直垂”ひたたれ” 出典:Wikipedia)

 

頭には折烏帽子(おりえぼし)をかぶり、非常に動きやすい格好をしています。

 

他の農民達は主に小袖(鎌倉時代は下着)を上衣として着用していました。

 

(室町時代の農民の服装 画像引用元

 

室町時代の染め物技術の発達により、柄物の染色も可能になっていたため、彩り豊かな着物が普及していきました。動きやすさが最も重要であったのは武士も農民も共通しています。女性は長い髪が邪魔にならないよう、頭の上で布を巻いてまとめていたようです。

 

③漁業の発達

漁業では、地曳網が上方で使われるようになりました。魚群を囲い込んで浜に引き寄せる引き網漁法です。沖での流し網も行われました。

 

また、このころになると塩田での塩の生産も発達してきました。満潮時の海面より高い場所に設定して、浜辺で海水を汲んで運び、灌水して砂に塩分を付着させる揚浜法で塩をつくっていました。砂に付着した塩はさらに海水にとかして濃い塩水をつくり、それを釜で煮詰めて塩をつくります。

 

こういった漁業や塩づくりなども、人々の食文化をより豊かにするきっかけになりました。

 

商業の発達

①商業

農業や手工業の発達により商品の増大、流通経済が発展していきました。これに伴い、市の開催頻度が増加し、月に3回ひらく三度の市から、応仁の乱後は6回ひらく六斎市(ろくさいいち)が一般的になりました。

 

また、連雀商人(れんじゃくしょうにん)振売(ふりうり)とよばれた行商人の数も増加していきました。連雀とは荷物運搬用の木製の背負い道具のことで、これが転じて行商人の意味になりました。振売は呼び売りして歩く行商人のことです。

 

これらの行商人には、女性の活躍が目立ちました。京都の大原女(おはらめ)桂女(かつらめ)が代表的です。

 

(左側が大原女 出典:Wikipedia

 

 

大原女は、炭や薪を頭に載せて京の町を売り歩いた行商の女性のことで、桂女は鮎や朝鮮飴を売り歩いた鵜飼集団の女性です。他にも魚売り・扇売り・布売り・豆腐売りなども女性が多くいました。

 

これまでは行商人のように、路上で物売りをする立ち売りが多かったのですが、京都などの大都市では常設の小売店が一般化していきます。往来の人に見せるため、軒端に商品を並べる棚を置いて販売した所は見世棚(店棚)と呼ばれました。また、京都の米場・淀の魚市などのように、特定の商品だけを扱う市場も生まれました。

 

手工業者や商人のもその種類や数が急激に増加しました。座とは、公家・寺社を本所と仰いでその保護を受け、座衆は座頭の統率の下に座役(本所への納付金)を納め、その代わりに関銭免除や販売独占権などを持った同業組合のことです。

 

なかには、大寺社や天皇家から与えられた神人(じにん)・供御人(くごにん)の称号を根拠にして、全国的な活動を見せた座もありました。

 

大山崎の油神人(油座)は有名で、石清水八幡宮を本所として、畿内・美濃・尾張・阿波など10カ国近い国の油の販売と、その原料である荏胡麻(えごま)購入の独占権を持っていました。

 

しかし、15世紀以降になると座に加わらない新興商人が出現し、また地方には本所を持たない新しい性格の座(仲間)も増えていきました。

 

後の楽市楽座政策により、独占的・特権的な座は廃止されることになるのです。

 

②金融業

 

 

商品経済が盛んになると貨幣の流通が大きく増加し、農民も年貢などの税を貨幣で納入することが多くなりました。また、遠隔地との取引の拡大とともに、為替の利用も盛んに行われました。

 

そして、貨幣経済の発達は金融業者の活動も促しました。当時、酒屋などの富裕な商工業者は、土倉とよばれた高利貸業を兼ねるものが多く、幕府は、これらの土倉・酒屋を保護・統制するとともに、営業税を徴収しました。この営業税は幕府の重要な財源となりました。

 

遠隔地との取引が盛んになったことで、海・川・陸の交通路が発達し、廻船の往来も頻繁になりました。

 

交通の要所には問屋(といや)が置かれ、多くの地方都市が繁栄しました。問屋は鎌倉時代に年貢の保管・輸送を行った問丸がもとになっており、室町時代には委託された貨物を手数料をとって売りさばくようになったことで発展しました。商品の保管・売買の他に、商人宿の機能も果たしました。

 

また、多量の物資が運ばれる京都への輸送路では、馬借(ばしゃく)・車借(しゃしゃく)とよばれる運送業者が活躍しました。馬借は馬の背に荷物を載せて運搬するのに対し、車借はより重い荷物を車に載せて牛や馬に引かせて輸送します。馬借は、広い地域の情報を得やすいことや、集団的組織力を持つことから、しばしば一揆の中心となりました。

 

③各地の特産物

 

 

地方でもさまざまな産業が発達したことで、各地で特産品と言えるものが増えてきます。

 

加賀・丹後などの絹織物美濃の美濃紙、播磨の杉原紙(すいばらがみ)美濃・尾張の陶器備前の刀、能登・筑前の釜、河内の鍋などが有名でした。

 

特に、刀剣は国内向けだけでなく、日明貿易における重要な輸出品の一つでもあったため、大量に生産されました。

 

また、京都では高級絹織物が生産され、酒造業も京都のほか、河内・大和・摂津などが名酒の生産を競いました。

 

まとめ

・室町時代には、惣村と呼ばれる農民達の自治組織がうまれた。

・農業は、食品作物だけでなく商品作物や手工業に利用する作物も多く栽培され、様々な商品が流通するようになった。

・商品流通の増大に伴い、座などの商業組合などがうまれ、馬借・車借などの運送業者や金融業者なども発達していった。