【明治六年の政変とは】簡単にわかりやすく解説!!原因・下野した人・その後など

 

2018年の大河ドラマの主人公である西郷隆盛。

 

しかし、西郷隆盛は明治六年の政変によって明治政府を辞職してしまいます。

 

今回は「政変がなんで起こったのか?」そして「政変後どうなったのか?」を中心に『明治六年の政変』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

明治六年の政変とは?

(征韓論之図 橋本周延 画 引用元サイト

 

 

明治六年の政変とは、『征韓論』を主張する西郷隆盛・板垣退助・江藤新平と内政の充実を主張していた大久保利通・岩倉具視・伊藤博文らが対立。多くの征韓論派の人が明治政府から下野してしまった事件のことを言います。

 

※下野とは、官職を辞めて民間(一般)に下るという意味

 

下野した人は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤、副島の5人・また板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職しました。

 

明治六年の政変が起こった背景や原因

①明治時代初期の朝鮮の動向

江戸幕府を打倒して王政復古した明治新政府は諸外国に『これから日本の政治は江戸幕府に変わって明治新政府がやりますんでよろしく』という内容を伝える使節を送ります。

 

しかし、李氏朝鮮はそのことに憤慨していました。そこには朝鮮側の事情と背景がありました。

 

当時の朝鮮は親中国派の興宣院大君(こうせんだいいんくん)という人が朝鮮の政権を掌握していました。

 

この人は『中華思想(自分の国が一番と思っている思想)』をベースとした国づくりをしていきます。

 

そして朝鮮は徐々に『西洋式の文明を取り入れていた日本』を邪魔だと思い始め、ついに日本との関係を断絶してしまいます。

 

②征韓論の誕生「朝鮮を武力で制圧!」

日本はそんな朝鮮の動向があっても朝鮮に対して粘り強く交渉を続けますが、朝鮮側のあまりにも無礼な対応に激怒した日本側は武力で朝鮮をボコボコにして無理矢理話を通す『征韓論』という考え方が生まれます。

 

 

板垣退助・江藤新平らはもう我慢できないとしてこの征韓論を支持します。

 

しかし、西郷隆盛はあくまでも話し合いで解決するべきと主張します。

 

さらに朝鮮を説得するために西郷自身が全権大使として朝鮮に派遣するように明治天皇に懇願しました。

 

しかし、明治天皇は『頼むから大久保利通ら外国派遣組が帰ってくるまでは我慢してくれ』と西郷に言います。

 

そして征韓論は帰ってくるまで保留となりました。

 

③意見の対立

(岩倉使節団 出典:Wikipedia

 

 

大久保ら外国派遣組が1873年9月13日に帰国しました。

 

そして征韓論の動きを見て外国派遣組全員が反対します。反対理由は2つありました。

 

⑴国内の産業を発展させたかったから

大久保ら外国派遣組はイギリスやアメリカなどの西洋の進んでいる文明の数々を見て衝撃を受けます。

 

そしていち早く西洋の文明を取り入れて日本を外国と肩を並べる国に成長するべきという意見になります。

 

しかし、征韓論の意見が採用されれば国内は戦争ムードになり国を発展させることが難しくなるかもしれないと思っていました。

 

⑵外国との関係が悪くなるかもしれなかったから

大久保はもし仮に粘り強く交渉しても朝鮮側が関係を元に戻すことは難しいと考えており、さらに最悪の場合西郷が朝鮮の人に暗殺されてしまうと思っていました。

 

もし、西郷が暗殺された場合には日本は弔い合戦として朝鮮と戦争になってしまうかもしれません。

 

また、当時の朝鮮は清の属国だったので朝鮮と戦争すると自動的に清との関係は最悪となっていしまいます。

 

さらに朝鮮の土地を欲しいと思っていたロシアとの関係も冷え込んでしまいます。

 

もちろんこのころの日本はロシアや清と張り合えるだけの国力が備わっていないという理由や朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交問題が山積みという理由などから猛烈に反対しました。

 

※当時の外交問題:清との琉球の領有権、ロシアとの樺太、千島列島の領有権、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正など

 

明治六年の政変「運命の閣議」

(明治天皇 出典:Wikipedia

 

 

そして明治天皇は『閣議で判断してくれ』という要請を受け閣議をやります。

 

この閣議には議長である太政大臣三条実美をはじめ、岩倉具視、西郷隆盛、板垣退助ら政府の官僚が出席しました。この閣議で征韓論の意見を採用するかしないかを決めようとしました。

 

結果は征韓論に賛成派と反対派が五分五分になってしまい、この閣議だけでは決めることができませんでした。

 

しかし、西郷は『私の意見が通らないなら辞任する』と言い放ち、困った議長の三条が反対派の意見を無視して西郷の朝鮮への派遣を決定します。

 

これに対して反対派の大久保、大隈は辞表を提出したのです。

 

さらに岩倉も『これ以上政府と付き合っていけない』と政府に伝えます。

 

ともかく後は明治天皇に判断するだけとなったときに三条が過度のストレスから倒れ、意識不明になってしまい、そのままこの世を去ってしまいます。

 

これを受けて岩倉が太政大臣代理に就任。西郷・板垣・江藤が天皇にいち早く判断をしてもらうように要求します。

 

しかし、岩倉は「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張し、派遣決定と派遣延期のどちらを選ぶのを天皇が判断することになりました。

 

明治天皇は結局岩倉の意見を採用して征韓論は却下されました。

 

賛成派の大量辞任

そして西郷ら征韓論派の官僚は却下された翌日に辞表を提出して賛成派の参議5人は政府から離れました。

 

さらに征韓論を支持する軍人がどんどん辞職しておよそ600人が政府から離れることになりました。

 

明治六年の政変のその後

(西郷隆盛 出典:Wikipedia

①政変後の賛成派の動向

西郷は政府を去った後故郷である鹿児島に戻り、私学校を建てて悠悠自適な生活を送るようになります。

 

しかし、西南戦争で西郷は反乱軍の総大将となり、結局西郷は負けてしまい自害しました。

 

 

もう一人の賛成派の主格であった板垣退助は政府を去った後に故郷の土佐に戻って自由民権運動を起こし愛国公党を結成して反政府運動を展開していきます。

 

 

そして、江藤新平は佐賀の乱を起こし処刑されてしまいました。

 

 

②政変後の反対派の動向

反対派の主格であった大久保は内政改革を行い地租改正や学制を作り、日本の近代化の土台を作り上げることになります。

 

そして日本は大久保の政策によって富国強兵を推し進めていくことになるのです。

 

 

まとめ

 明治六年の政変とは、多くの征韓論派の人が明治政府から下野してしまった事件のこと。

 明治六年の政変の原因は征韓論による意見の対立。

 大久保ら外国派遣組は内政を優先するのと外国との関係悪化を恐れて反対した

 反対派の意見が採用されて西郷隆盛や板垣退助などの賛成派の人が一斉に政府を辞職して、大久保の下に持って日本は内政改革を進めていった。

 

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【みんなの感想】

明治維新から西南戦争に至る歴史の通説には、これまで腑に落ちないものを感じていただけに、この本で示された通説への異論には、目を見張らされました。
このような本こそが読みたかったのだという、紛ごうことなき傑作です。

時代は岩倉使節団の結成から、明治六年政変までが中心です。
著者は、この間の歴史の流れを丁寧に追いかけることで、強い説得力をもって、通説を次々に覆して行きます。

その中で見えて来るのは、歴史上の人物達の個性であり、流動的で複雑な人間関係です。
これらが歴史の転換点において、どのように現れたのかが、本書の読み所です。
木戸孝允の不安定、江藤新平の清新な才能、西郷隆盛の剛直、伊藤博文の組織者としての才覚などが挙げられますが、最も印象的だったのは、大久保利通の一環した不可解さであり、プライドの高さでした。

多くの新鮮な視点により、歴史認識が転換されること間違いなしです。

明治6年におこった一大政変について解説した書。
この政変の発端となった、西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題(征韓論)について、実は西郷は征韓論者ではなかったとする説が斬新。

元公家の三条と岩倉、薩摩の西郷・大久保・黒田、長州の木戸・伊藤・井上・山縣、佐賀の江藤・副島など、これら要人の様々な思惑が交錯した結果による混乱であり、その過程を詳しく説明している。

著者がかなり江藤新平に肩入れしている一方、汚職にまみれた長州派要人に対しての厳しい評価が印象的だった。

明治六年政変は、俗説が言うように、西郷隆盛の征韓論と大久保利通の内政重視論が衝突して起こったものではなかった。そうではなく、人権重視・近代的法体系重視の江藤新平を追い落とすための、大久保利通が仕組んだクーデターだった。これが本書の中心論点である。西郷隆盛はそもそも征韓論者ではなく、使節として訪問することにより朝鮮問題をむしろ平和的に解決しようとしていた。また、これに先立つ岩倉使節団は、一年あまりの長きにわたり無聊をかこっていただけのまったくの失敗であり、大久保にとってはその挫折感がこうした策謀の心理的背景になっていたとする。これらのことを著者は、文献を綿密に辿りつつ明らかにしている。
説得力のある仮説であると感じた。またこう理解することにより、続く自由民権運動との関係も、またこの政変の陰の立役者だった伊藤博文のその後の政治的動きも、評者には腑に落ちるものになった。