女性が政治に関わるとろくなことが起きないとたまにそんなことを言う人がいますが、そうとは限りません。
しかし、日本ではかつて女性が政治に関わったことによって大混乱を招いてしまったことがあったのです。
今回はそんな『薬子の変(くすこのへん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
薬子の変とは?
薬子の変(平城太上天皇の変)とは、平安時代初期の810年に藤原薬子によって平城上皇と嵯峨天皇の間に起こった大騒動のことです。
この変によって藤原式家は没落してしまい、藤原北家の独壇場状態となっていきました。
藤原四家ってどんなものなの?
今回の話のキーポイントである藤原薬子。この人は藤原家の中で式家という家出身の人でした。
そこでまずは藤原家の四つの家系について見ていきましょう。
①藤原南家
まず最初に紹介するのは藤原南家です。
名前の由来は住んでいた家が南にあったことが由来という結構シンプルなものでした。
この家は藤原家の祖である藤原不比等の長男の藤原武智麻呂の家系だったこともあり、奈良時代における藤原家といえばこの南家を指しており、藤原仲麻呂(恵美押勝)の代には皇族以外では史上初となる太政大臣に任命されるなど、最初の藤原家の黄金期を築き上げました。
しかし、その黄金期も長くは続かず、当時の天皇であった孝謙天皇の元で勢力を広げていた道鏡というやばいお坊さんと対立してしまい、恵美押勝の乱を引き起こしてしまいました。
その結果乱は鎮圧され藤原南家は没落。
平安時代にはちょこちょこ公卿を出したみたいですが、あまりぱっとする結果は残せませんでした。
②藤原北家
藤原北家とは藤原不比等の次男である藤原房前という人の家系です。
名前の由来は南家と同じく家が北側にあったからというまたまたシンプルなものでした。
ぶっちゃけていうと藤原家といえばこの家をさす人も多いぐらい平安時代に活躍した藤原家であり、摂関政治の最盛期を築き上げた藤原道長や鎌倉時代以降の五摂家などはこの家出身です。
しかし、薬子の変以前は次男だったこともあって南家や式家に押されがちだったのですが、この薬子の変によって北家の繁栄が始まっていったのです。
③藤原式家
藤原式家とは藤原不比等の三男である藤原宇合の家系です。
名前の由来は藤原宇合が式部卿に任命されたのが由来だそうです。
藤原式家の繁栄はまさに波乱万丈。
最初の頃は南家に続く家柄を保持していたのですが、宇合の息子である藤原広嗣が九州で反乱を起こしてしまい、家は没落。南家と北家に劣ってしまう結果となってしまいました。
しかし、南家が恵美押勝の乱で没落するとなんとか家は立て直していき、薬子の変のちょっと前には天皇の擁立に成功します。
藤原種継の代に入ると朝廷のトップ2である左大臣まで昇進して式家の最盛期を築き上げたのでした。
④藤原京家
藤原京家は藤原不比等の四男である藤原麻呂の家系です。
名前の由来は藤原の麻呂が左京大夫に任命されたのが由来なんだそうです。
しかし、藤原京家はキングオブ地味と言えるぐらい何にもしておらず、藤原麻呂が末子だったこともあり、さらに極め付けにはそれでも業積を残せるとした矢先に藤原浜成が氷上川継の乱に巻き込まれてしまい一族丸ごと流罪に…。
あまりぱっとする業績は残せませんでした。
ちなみに直江兼続の直江家は藤原京家を由来にしているんだそうです。
薬子の変までの流れ【背景と原因】
①藤原式家の台頭と藤原薬子
舞台は平安時代が入ってすぐの平安京。
藤原式家は藤原南家や北家に押されながらも藤原種継が自身の娘を桓武天皇の妃にしたことによってどんどん昇進。藤原式家の最盛期を築き上げます。
こうして藤原式家がどんどん台頭していくのですが、その中でもヒャッハーとしていたのが種継の娘である藤原薬子でした。
薬子は元々桓武天皇の宮女でしたが、後に平城天皇となる安殿親王と色々あってスキャンダルな関係になります。
桓武天皇はこれに大激怒して薬子を追放しましたが、この藤原薬子が後にとんでも無いことを引き起こすのです。
②怨霊による天皇の譲位
薬子の変の変の裏側には天皇家の対立もありました。
桓武天皇が崩御すると天皇の座はかつて藤原薬子と関係を結んだ安殿親王が平城天皇として即位します。
しかし、この平城天皇がなかなか気の弱い人物で非常に病弱だったそうです。
そんな中809年に平城天皇は病気を引き起こしてしまい寝込んでしまいます。
普通なら単なる病気と思うのですが、あろうことか当時平安京では桓武天皇が長岡京に遷都した時に無実の罪で淡路に流してしまった早良親王の祟りだと恐れられていきます。
平城天皇もこの怨霊の祟りだと判断して平城天皇は譲位を決意。せっかく藤原薬子出身の式家が繁栄を極める矢先に嵯峨天皇に譲位してしまったのです。
(嵯峨天皇 出典:Wikipedia)
③平城天皇の嵯峨天皇との対立と二所朝廷
さて、こうして天皇の位は嵯峨天皇に渡されましたが、平城天皇は天皇をやめて上皇になった後、昔の都であった平城京に移り住みます。
しかし、ここで問題が発生。なんと嵯峨天皇が平城天皇の時代に作った観察使という役職を改めようとしたのです。
「せっかく作った役職なのにあいつはなんで改ようとするのだ!」そう激怒した平城天皇は、平城京にて上皇として政治に介入していき二所朝廷と呼ばれる対立関係が生まれていきます。
これに対してラッキーと思ったのが、かつて平城天皇の女宮であった薬子とその兄である藤原仲成でした。
この2人はこのことによって平城上皇が再び天皇になってくれるかもしれないと予想して、どんどん平城上皇を煽り立てます。
こうして薬子の変の下地がどんどん確立されていったのでした。
薬子の変の勃発
①平城上皇の遷都宣言
810年のとある時、嵯峨天皇は病気で寝込むようになり天皇の譲位が現実的なものになっていきます。
これに対して薬子と仲成は再び平城上皇を天皇にしようと企てますが、これは嵯峨天皇があっさり復活したことによって失敗。どんどん平城天皇が作った制度を廃止していきます。
これに対してついに堪忍袋の緒が切れた平城上皇はついに平城京に遷都するという一線を越える宣言をしてしまいました。
しかし、平城京はとっくの昔に遷都されており、もはや都の機能は果たしていません。これで大丈夫なんですかね。
②薬子の変の経過
平城上皇がついに平城京に遷都を宣言したことはすぐさま嵯峨天皇にも伝わり、急遽征夷大将軍であった坂上田村麻呂と藤原北家の藤原冬嗣を平城京に向かわせます。
(藤原冬嗣 出典:Wikipedia)
まぁ、当然のことだと思うのですけど、この意外な速さに平城上皇側はついに関東方面に逃亡を決意。輿に乗って悠々自適と東に向かいます。
しかし、この緊張感のなさが仇となり平城上皇は逮捕されてしまい、出家をして上皇の座を捨てます。
さらに藤原薬子は毒を煽り自殺。藤原仲成は射殺によって処刑されてしまいました。
薬子の変の影響
薬子の変によって藤原仲成が射殺されてしまうと式家の勢力は急速に衰えていき、ついには没落してしまいます。
こうなると藤原家は誰が支えるんだとなるのですが、この時に式家に変わって繁栄したのが藤原北家だったのです。
薬子の変が終結した後、藤原冬嗣はどんどん昇進。
さらに冬嗣は自身の娘を天皇家に送り込むことで後の摂関政治のベースを作り藤原北家の最盛期を築き上げるきっかけを作ったのでした。
薬子の変は藤原北家の繁栄が決まったきっかけでもあったのです。
まとめ
✔ 薬子の変は810年に平城上皇が平城京に遷都しようとしていた事件のこと。
✔ 薬子の変は平城上皇の他に藤原式家出身の藤原仲成と藤原薬子が関わっていた。
✔ 薬子の変はあっさりと鎮圧されてしまい、藤原薬子は毒殺、藤原仲成は射殺されてしまった。
✔ 薬子の変以降式家は没落してしまい藤原北家の独壇場となっていった。