【血税一揆とは】わかりやすく解説!!一揆の理由や由来・場所など

 

明治が始まり、明治政府が新しい政策を次々と行なっていきます。

 

しかし、その政策に反対する運動や一揆も起こりました。

 

今回は、そんな政府への反対運動の一つである『血税一揆』についてわかりやすく解説していきます。

 

血税一揆とは?

 

 

1868年(明治6年)に明治政府が成立し、新しい政策が打ち出されていきます。1873年には徴兵令が制定。それに反対して起こったのが血税一揆でした。

 

血税一揆は農民を中心として行われ、1873年3月から1874年12月まで16件起こったと言われています。または19件とも、14件とも言われています。

 

主に西日本を中心に一揆は起こりました。最初の一揆は度会県(今の三重県辺り)牟婁(むろ)郡神内村から始まり、高知県幡多郡の蜂起で終わりました。

 

血税一揆がおこった背景

血税一揆が起こったのには、明治政府が発布した徴兵令が大きく関わっています。

 

明治政府は、他にどのような政策を打ち出したのでしょうか?

 

①新政府の政策

明治政府は今までの江戸幕府を変えて近代国家を造ることを目的としていました。そのために、今までの制度とは全く違う制度を作る必要がありました。

 

まずは版籍奉還により今まで藩が所有していた土地と人民を天皇に返上します。

 

 

廃藩置県では、藩を廃止して県を置くことにより中央集権的な統一国家を作り上げます。

 

 

四民平等では、武士の位を農民と商人と同じく平民の位にし、以前の武士たちは帯刀することがなくなりました。

 

その後、徴税方法を変える地租改正国民皆兵の思想にもとづく徴兵令も制定されました。

 

 

②徴兵令を発布した背景

徴兵令は、1873年に陸軍省から発布されました。

 

それ以前、明治政府が出来た頃の政府軍は官軍と呼ばれていましたが、それは薩摩や長州などの藩の軍が集合したもので、政府が独自に集めた軍ではありませんでした。

 

その後、近代戦を戦うには個人の技術に頼る軍隊では勝てないということが認識され、国民皆兵に基づく徴兵制の導入が必要とされてきました。

 

そのためには今までの身分制度をなくすことと、徴兵をするために廃藩置県と戸籍法の制定が大いに役立ちました。

 

こうして1872年には政府から「徴兵令を出します」という宣言の徴兵告諭(ちょうへいこくゆ)が出され、翌年徴兵令が発布されたのです。

 

血族一揆が起こった理由は『徴兵令』

 

 

徴兵告諭の内容を勘違いした農民たちの間で、徴兵令反対の意見が高まります。

 

この勘違いとはどのような誤解があったのでしょうか。また、徴兵令の内容とその影響はどのようなものだったのでしょうか?

 

①農民の勘違い・血族一揆の由来

徴兵告諭の一節に「人たるもの固(もと)より心力を尽し国に報ひざるべからず。西人(西洋人)之を称して血税と云ふ。その生血をもって国に報するの謂なり」がありました。

 

ここに出てくる「血税」という言葉を取って、徴兵令に反対する一揆を「血税一揆」と呼ぶようになりました

 

血税とは、本来血を出すほどの辛い思いをして納める税金のことですが、先の一節で、特に無知な農民は本当に血を取られると勘違いしたということです。それが、激しい一揆の原因ともなりました。

 

②徴兵令の内容

徴兵令の規則で、満20歳以上の男子が抽選で3年間の兵役を行うことになりました。ただ、徴兵免除もあり、20歳以上の男子の3~4%しか徴兵することができませんでした。

 

実際、当時の政府にとっては財政的にも成人男子すべてを徴兵することは困難でした。

 

徴兵免除としては、体格が基準に達しないもの、病気を持つもの、一家の主であったり家を継ぐもの、養家の養子などでした。養子になって徴兵を逃れるものも続出したため、徴兵免除のための解説書まで作られました。

 

③徴兵令の影響

徴兵が実行され始めると、一揆とは反対に兵役についた方が生活が保証されているという考え方になっていきます。

 

特に、農民にとっては不況下において兵役中であれば、毎日白米六合が食べられ、布団で寝ることができました。当時の農民は一般的に藁で寝ていました。休日もあり、給与ももらえ、暴力を振るわれたとしても、農作業より楽だという考えが広まりました。

 

このため、農村では兵役に行くと怠け者になると言われていたそうです。

 

さらに、兵役による近代的な生活システムが農村にも伝わっていったということも言えます。

 

血税一揆の様相

 

 

血税一揆は主に現在の岡山県辺りを中心にして起こりました。

 

その中でも、規模が大きく激しい一揆は、美作地方の一揆、会見郡の一揆、西讃の一揆があります。

 

①美作(みまさか)地方の一揆

美作(みまさか)地方の血税一揆は、1873年5月26日から始まり6月1日まで続きました。美作地方は現在の岡山県東北部に位置します。

 

参加者は「徴兵令反対、学校入費反対、穢多非人の称廃止の反対」などを叫んで焼き打ちなどを行い、とても激しいものとなりました。

 

焼き打ちなど攻撃の対象となったのは、地域の役人宅や小学校、被差別部落などで被差別部落では住民29名が死亡しました。

 

一揆のリーダー格であった人物は、明治政府の新政策にも不満があったと、逮捕時に供述しています。この一揆で有罪とされたものは2万人以上とも言われています。

 

②会見(あいみ)郡の一揆

鳥取県の会見郡で起こった血税一揆で、1873年6月19日から26日にかけて続きました。「竹槍騒動」や「会見郡徴兵令反対一揆」とも呼ばれています。

 

「徴兵令の反対、太陽暦と小学校の廃止」などをかかげて打ち壊しを行いました。

 

制服を来た小学校の教員が「血を取る人」と間違えられて、襲われたのを機に、一揆のグループは各地の戸長宅や小学校を襲撃しました。

 

県により大規模な取り締まりが行われ、処分されたものは1万人以上となりました。

 

③西讃竹槍騒動

現在の徳島県、淡路島、香川県の7郡で起こったのが、西讃竹槍騒動です。6月27日から7月6日まで続きました。

 

放火された村は103村で、農民側の死者が50名、政府側の死亡者は2名という激しいものでした。

 

この一揆には、次のような話が言い伝わっています。

 

ある日、一人の女が二人の子どもを抱え、竹槍を手に持ってどこかに飛び出していきました。この女を捕まえた住民が「子取り婆あ」と言って騒ぎ始めました。

 

また、この頃「徴兵検査は怖いものよ。若い子を取る、生き血を取る」という歌も流行っていたということです。

 

この事件を調べようとした戸長に反対したものたちが戸長を襲い、一揆へと発展していきました。農民たちは「徴兵令反対、学制反対」をかかげていました。

 

1872年に制定された学制により、農民たちにも税金が課され、それが大きな負担になっていたことが原因で、この一揆で48の小学校が破壊されました。

 

まとめ

・血税一揆とは、1873年6月から7月にかけて起こった徴兵令に反対する農民一揆である。

・徴兵令だけでなく、政府による他の政策への不満も広がっていた。

・主に岡山県や鳥取県などの西日本で起こった。

・農民たちが血税を本当に血を取られると勘違いしたことも、一揆の原因の一つである。

・徴兵令は満20歳以上の男子を対象として、3年の兵役を課した。

・当初恐れられていた徴兵令も、時代とともに生活の糧と考えられるようになった。