日本の政治は平安時代中期から摂関政治、平安時代末期からは武士による政治になりまずが、その間に天皇による政治が行われていました。
しかし、この天皇による政治が結構難があったのです。
今回はそんな政治である『院政』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
院政とはどのような政治?
院政とは、平安時代後期ごろから行われていた天皇に代わってその親であり、位を譲っていた上皇が政治を行う仕組みのことです。
院政の院というのは上皇のことを〇〇院と呼ぶことがあり、〇〇院が政治をするから院政と呼ぶことも覚えておきましょう。
院政に入るまでの歴史
(藤原北家の家紋 出典:Wikipedia)
①摂関政治の弱まり
平安時代中期、この頃は藤原北家が権力を牛耳っており、藤原家出身の娘を天皇に嫁がせてその間に生まれた息子を天皇にして自分はその父となり政治を行なっていく摂関政治が行われていました。
この政治の仕組みによって藤原北家は全盛期を迎え天皇よりもはるかに高い地位に就くことができました。
しかし、そんな最盛期は続かないのが当たり前。残念ながら藤原頼通の頃に娘が生まれず藤原家の血があまり流れていない後三条天皇が天皇に即位しました。
(後三条天皇 出典:Wikipedia)
こうして藤原家の摂関政治が弱まったおかげで再び天皇の力が強くなっていくのです。
②後三条天皇の改革
後三条天皇は父やその祖先が藤原家に苦しめられた恨みとばかりに藤原家に変わって村上源氏をどんどん重用していき(源頼朝は河内源氏出身)、どんどん藤原家を政治から遠ざけていくようになります。
さらに後三条天皇は延久の荘園整理令を発令。不正に取得した荘園を没収する法律を強行して藤原家の荘園を続々と没収していきます。
こうしてどんどん藤原家の力を削いで天皇の権力の下地を作った後、白河天皇に譲位。
しかし、残念なことに後三条天皇は院政をしたかったと思いますが譲位して直後に亡くなってしまいました。
③白河天皇の即位と堀河天皇への譲位
後三条天皇から譲位を受けて18歳にして天皇となった白河天皇。
(白河天皇 出典:Wikipedia)
18歳といったら高校3年生と同じ歳なので荷が重く感じるかも知れませんが、この白河天皇が院政の代表例となっていくのです。
白河天皇は後三条天皇と同じ天皇自ら政治を行なっていくのですが、なんと白河天皇は天皇に即位してから14年後に天皇の座を息子である堀河天皇に譲ってしまったのです。
つまり32歳で天皇を辞めたのです。
なんで白河天皇が天皇の位をちゃっちゃと譲ったというと、ただ単に白河天皇が政治に興味がなくなったわけではなく、こうすることによって天皇をいざこざなしに息子に譲ることができるようになるのです。
そのため白河天皇は白河上皇となっても自分自身は藤原家と協力して政治を進めていくことになっていきます。
④白河上皇と藤原家
白河上皇は最初の頃は堀河天皇の母の養子であった藤原師実という人を摂政として、摂関政治をおこなわせます。
まだこの頃は院政と摂関政治のハイブリッドみたいなもので、白河上皇もこの状態を不満に思っていませんでした。
しかし、藤原師実が摂政を息子の藤原師通に譲ってから事態は大きく変わっていきます。この頃になると堀河天皇も立派に成長していき、そろそろ独り立ちしてもいいほどになります。
さらに藤原師通自身も堀河天皇をバックアップして堀河天皇自身が直接政治ができるように働きかけます。
これをうざいと思ったのが当時政治をしていた白河上皇です。白河上皇は堀河天皇につく藤原師通とどんどん対立。戦乱は必至になりかねないようになります。
⑤白河上皇の独裁状態に
しかし、そんな矢先に藤原師通が急死。その息子である藤原忠実が関白として就任することになります。
でもこの男。お世辞にも政治ができるとは言えない人でした。
当時平安京では延暦寺と園城寺による強訴が相次ぎ、その対応に追われます。そうなるとやがて藤原忠実ではなく、政治スキルが高い白河上皇が政治をやるべきだという声が出始めるようになり、忠実はこのままだと自分の地位が危ないということで隠居。
当時仏門に入っていたのですが再び白河法皇が政治の権力を握るようになり、本格的な院政が始まっていきます。
院政の仕組み
①治天の君
こうして院政に突入していったわけなんですが、堀河天皇はこの頃になると政治に興味を失い、白河法皇に全てを丸投げしてしまいます。
こうして白河法皇が政治をするわけなんですが、白河法皇はいつの間にか天皇の父であるにもかかわらず政治の権力を握っている人である『治天の君』と呼ばれるようになります。
治天の君はまず律令制で決められている官僚とは別に新しく側近を置くようになります。
この新しく就いた側近のことを院近臣(いんのきんしん)と呼ぶのですが、この院近臣はなんとコネだけで普通の官僚にはなれない人でもなれることができたわけです。
これには官僚になりたくてうずうずしている人たちはどんどん白河法皇に接近。賄賂を贈り始め法皇の懐はホカホカになっていきます。
こうして白河法皇は賄賂による財力と好き勝手に人材を登用する権力を手に入れたのです。
②受領支配と寄進地系荘園
白河法皇はこの頃の貴族や寺社の重要な収入源である荘園にも目をつけ始めます。
白河法皇はまず、受領という現地の地方役員の任命権を獲得します。これだけでも結構すごいことなんですが、さらにその受領たちが自ら法皇へと働きに来るのです。
これは一体どういうことかというと、こうすることによって受領たちは土地を獲得できたり、豊かな土地に交換できたりすることが可能となるのです。
つまり、院近臣みたいにどんどん賄賂や土地を上げることによって受領たちは得をし、白河法皇も財力を持つことができるというwin-winの状態となるのです。
法皇の力恐るべし。さらに荘園を支配していた人も権力を持っており、財力があった白河法皇に荘園を寄進するようになります。
これを寄進地系荘園というのですが、これによってさらに権力を増していくのです。
③院庁下文の発令
こうして財力と権力を増やし続け準備満タンの白河法皇は、院宣や院庁下文という命令書を出して政治を行います。
この院宣や院庁下文は天皇の命令よりも絶対であり、天皇の意見とは真逆でも院庁下文の方が採用されることになります。
こうして天皇の権威や藤原家の権力は地に堕ちたものになってしまい、世の中は白河法皇を絶対的な支配者としてみていくことになるのです。
院政の終わり
(崇徳天皇 出典:Wikipedia)
白河法皇は天皇を堀河天皇から鳥羽天皇、そして崇徳天皇の代まで院政を行い、そして亡くなりました。
そして鳥羽上皇が代わりに院政をすることになるのですが、1156年に鳥羽上皇も亡くなると崇徳天皇と後白河天皇の間で保元の乱という朝廷での内紛が起こり、時代はどんどん院政の時代から武士の時代へと変わっていきます。
保元の乱に勝利した後白河天皇がなんとか院政を行っていくことになるのですが、もう遅かった。平治の乱以降どんどん平家の力が強まっていき、最終的には院政よりも強大な力を持つようになってしまいます。
さらに後白河天皇の孫である後鳥羽上皇が院政を行う時代になると、この時幕府の権力を牛耳っていた北条氏を倒そうと挙兵しますが失敗。
(後鳥羽上皇 出典:Wikipedia)
承久の乱と呼ばれるこの乱で後鳥羽上皇は隠岐に流されてしまい、さらに天皇の力を削ごうと京都に六波羅探題が置かれるようになります。
こうして天皇自身が譲位して上皇にはなるものの院政はやる意味がなくなってしまい、明治時代に入って皇室典範が制定されると院政は完全に廃止されました。
まとめ
✔ 院政は上皇や法皇が天皇に変わって政治を行うこと。
✔ 院政を行う上皇は治天の君と呼ばれ、院庁下文という命令書を出して上皇独自の権力を握った。
✔ 院政は武家社会になって承久の乱が起きて後鳥羽天皇が負けると一気になくなり、明治時代に入って皇室典範が制定されると廃止された。