俳諧が生まれた歴史や、連歌や俳句と一体どのような違いがあるのでしょうか。
今回は、日本の文芸“俳諧(はいかい)”について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
俳諧とは
(俳諧 画像引用元)
正しくは「俳諧の連歌」もしくは「俳諧連歌」とよび、滑稽な連歌という意味があります。
伝統的な連歌の形式を生かしつつ、滑稽な言葉(俗語や漢語など)を盛り込んだもののことを指します。
詩という日本文芸の一ジャンルとして独立していくにつれ、略称の「俳諧」という言葉が広く伝わりました。
俳諧の歴史
古代の時代から人々は自分たちの心情や、自然の美しさを表現するために和歌を詠んできました。
和歌のつよい影響から生まれた連歌から派生して生まれた俳諧の歴史も、辿ると平安時代までさかのぼることができます。
①平安時代
日本で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』巻19には58首の和歌が「俳諧歌」として収録されています。
和歌の内容は滑稽なものばかりで、俳諧の原点がここにありました。
また、平安末期の藤原清輔は歌学書『奥義抄』で俳諧の本質は、「その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあって、連歌が正しい系統なのであれば、その逆を大事にすることで、自然や人間の真実に迫ろうとする文芸」だとしました。
この考えは、江戸時代まで引き継がれることになります。
②室町時代
1357年(延文2)、日本で最初の連歌の准勅撰集『菟玖波集』の「雑体連歌」のなかに「俳諧」に分類した部門があります。
この頃はまだ、俳諧として独立したジャンルを築くことはありませんでしたが、15世紀に入り、1499年(明応8)、日本で最古の俳諧撰集『竹馬狂吟集』が編まれました。
『竹馬狂吟集』は、下品な笑いや大らかな滑稽を中心に詠まれています。
それから約40年後に成立したと思われる山崎宗鑑が編纂した『犬筑波集』(『俳諧連歌集』)や、1540年(天文9)に成立し、伊勢神宮の神官である荒木田守武の俳諧の千句形式(千の句を続けて詠んだもの)を初めて確立させた『守武千句』は、どちらも大らかな笑いにあふれた作品です。
山崎宗鑑と荒木田守武は、俳諧の祖と称され、文芸としての俳諧を世の中に広めた立役者でした。
③江戸時代
俳諧は江戸時代(17世紀)に入ると、松永貞徳を中心とする貞門という一門が、俳諧を全国で行いました。
(松永貞徳像 出典:Wikipedia)
しかし、貞門が行う俳諧は従来のことば遊び的な滑稽さを中心としていたため、新鮮さに欠けていました。
そこで、より新鮮で、もっとつよい滑稽さを求めようとする西山宗因ら率いる談林派の俳諧が登場し、貞門を圧倒します。
談林派の俳諧は、前の句の意味に応じて付句(前の句に対してつける句)をつけていく「心付」という技法が用いられました。
談林派の時代は1660年代の中頃(寛文中期)から1670年代(延宝)にかけてという、わずか十数年間で燃え尽きてしまいました。
そして、1690年代(元禄)になると、松尾芭蕉らのグループによる蕉風俳諧が台頭します。
談林派の俳諧の詠み方(心付)を、さらに前句から余情(直接的な表現には表れない気分や感情)を感じ取り、それに対してまた余情で応じるという「にほひ付」の技法によって談林派の俳諧をより高めたのが松尾芭蕉です。
(松尾芭蕉像 出典:Wikipedia)
貞門や談林の俳諧は、あくまでことば遊びを重要としていましたが、松尾芭蕉らの蕉風俳諧は、この“遊び”をあくまで俗語や漢語をつかいながらも、和歌や連歌と同じく、感情を表す優美な文芸として地位を高めたのです。
連歌と俳諧の違い
連歌から派生した俳諧ですが、そもそもどのような文芸なのでしょうか?そして、連歌と俳諧とはどのようにちがうのでしょうか?
①連歌とは
連歌とは、和歌の5・7・5(長句)に、他の人が7・7(短句)をつけ、さらに他の人が5・7・5を付け加え、これが百句になるまで続けていきます。
①Aさん ◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯(長句)
②Bさん ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯(短句)
③Cさん ◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯(長句)
…という風に、これが百句になるまで詠み続けます。
これを「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)といい、鎌倉時代から江戸時代まで連歌の基本形として親しまれてきました。
江戸時代中期以降(松尾芭蕉の時代)になると、百句を連ねて詠んでいたものを、三十六句まで詠みつなぐ「歌仙連歌」(かせんれんが)が発展し、これが現在の連歌の基本となります。
複数の人々が一つの場所に集まって歌を詠みつなぎ、ひとつの世界を完成させるという連歌は、「座の文芸」とよばれ、世界でもあまり例をみない文学として知られています。
②連歌から生まれた俳諧
和歌からつよい影響を受けて生まれた連歌という文芸ですが、そこには美しい言葉による優美な世界ばかりが存在していました。
同じ形式で、もっと滑稽で、卑俗的な内容を表すことはできないかと連歌から派生したのが「俳諧」です。
俗語や漢語など、本来和歌では使わない言葉をつかい、滑稽さを表した俳諧は、連歌とは“歌を連ねる“という形式は同じながらも、性格のちがうもう一つの文芸として確立されたのです。
俳諧と俳句の違い
俳諧と俳句、名前はとても似ていますが、その意味には差があります。
現在では俳句はメジャーな文芸ですが、その名前が一般的に使われるようになったのは明治時代からでした。
①連句から発句へ
俳句とは、5・7・5の三句十七音という文字数のなかで、季語を含んで優美な自然や人の心情を表現する日本の文芸です。
俳諧の連歌は連句が中心でしたが江戸時代末期から明治時代にかけて、連歌の一番初めに詠まれる句「発句」(必ず季語と切れ字を入れなければいけない)のみが独立するようになりました。
②俳諧の連歌から俳句へ
明治時代に入ると、正岡子規を中心としたグループによって俳諧の連歌から派生した発句のみの文芸を「俳句」と名付けられました。
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規はそれまでの俳諧を批判し、新しい詩の形として俳諧を蘇らせようと考えたのです。
まとめ
✔ 滑稽な連歌という意味をもつ連歌が俳諧。
✔ 連歌から派生したのが俳諧。
✔ 俳諧の連歌から発句のみ独立したのが俳句。
✔ 平安時代『古今和歌集』に「俳諧歌」が編纂されていた。
✔ 室町時代日本で最古の俳諧撰集『竹馬狂吟集』が編纂された。
✔ 山崎宗鑑と荒木田守武は、俳諧の祖と称され、俳諧を世に広めた。
✔ 貞門や談林の俳諧は、あくまでことば遊びを重要としていた。
✔ 松尾芭蕉は、あくまで俗語や漢語をつかいながらも、優美な文芸として俳諧の地位を高めた。