御家人という言葉は、日本史を学習する上で何度も耳にしますが、いざ意味を聞かれると戸惑いますね。
しかも、鎌倉時代の御家人と江戸時代の御家人は一見同じく、将軍の家臣のことを示すように見えますが、その実態はかなり違いがあります。
今回はそんな『御家人』について、鎌倉時代と江戸時代の違いも含め、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
御家人とは
そもそもは、鎌倉時代、将軍と主従関係を結んだ武士のことを御家人と呼んだのが始まりです。将軍とは御恩と奉公の関係で結ばれていました。
その後、内容は変化しましたが、江戸時代まで御家人の呼称は続いて用いられました。
では、どのように内容が変化していったのでしょうか?ここからは成り立ちから詳しく解説していきます。
御家人の成り立ち
御家人の呼称が使われるのは鎌倉時代からですが、それ以前に既に主君に仕える武士身分のものを家人(けにん)(または郎従・郎党)と呼んでいました。
鎌倉幕府成立後、将軍の家人となったものを「御」の字を付けて御家人と呼ぶようになったのです。
鎌倉幕府が確立すると、御家人は固定的な身分呼称になり、御家人ではないものを「非御家人」と呼び、厳格に区別されるようになりました。
ここで御家人が身分を表す呼称としてさらに固定化され、後の時代にもこの呼称が使われるようになっていきました。
鎌倉時代の御家人
(源頼朝 出典:Wikipedia)
①御恩と奉公
鎌倉時代の御家人は、将軍とは「御恩」と「奉公」の主従関係で結ばれていました。
御恩は将軍から御家人に対するもの、奉公は御家人から将軍に対するものです。
御恩は本領安堵(御家人の土地支配権の保障)と新恩給与(功績に応じて新しく土地を与える)ことです。これは地頭に任命することとほぼ同義です。
そして奉公は、この御恩を受けるかわりに、京都大番役を務めたり、戦争のときは兵士として戦うことを約束しました。
御恩と奉公、そして主従関係というと、大河ドラマなどの影響もあってか「命に代えてもお守りします!」みたいなイメージがありますが、鎌倉時代の将軍と御家人の関係はそれよりもっとドライな関係だったようです。
要するに、御家人は「将軍がこっちの生活保障してくれるなら、幕府の言うこと聞くよ」という程度です。
②御家人になるには?
これは学校ではあまり教えてくれない部分ではありますが、覚えておくとより分かりやすいかと思います。
御家人になるための正式な手順は、将軍に名簿(みょうぶ)を提出し、見参の礼をとることが必要でした。
名簿は身分証明書のようなものです。
つまり、身分証明書を提出し、将軍に顔見せすることが御家人になる儀式だったと言えます。
しかし、この儀礼も後に簡略化され、将軍に顔見せするだけでよかったり、将軍からの下文(簡単にいうとお達しの書かれた文書)があればOKだったりもしました。
2重3重に手続きをするのが面倒だと思うのは、昔の人も同じだったということですね。
江戸時代の御家人
(徳川家康 出典:Wikipedia)
①旗本と御家人
江戸時代の御家人は、旗本との区別の意味で使われる場合が多いです。
一万石未満の将軍家臣のなかで、将軍への謁見(つまり将軍にお目見えできる)のが旗本、謁見できないのが御家人です。
一万石というのは、管理している土地から取れる米の収穫高を示しています。
1石で180.39リットルです。数字が細かいですが、一斗升(よく日本酒や節分の豆を入れる木の入れ物のこと)の10倍です。
これが一万あるということは、具体的には想像しにくいかもしれませんが、かなりの量であることは分かるかと思います。
この一万石という数字の境目は重要で、一万石以上の武士は大名と呼ばれるようになります。
その一万石の生産高がなく、さらに将軍にもお目見えできない下級武士が御家人です。
②御家人株と御家人くずれ
江戸時代中期以降、富裕な町人・農民が多額の持参金をもって困窮した御家人の養子となったり、家格を買ったりすることが盛行しました。
こうして買い取られた権利を御家人株といい、売却した者は御家人くずれと呼ばれました。
鎌倉・江戸時代の御家人の違いを一言でいうと?
鎌倉時代の御家人と江戸時代の御家人の違いを、本当に簡潔に一言でいうなら鎌倉時代は将軍と主従関係を結んだ武士のこと、江戸時代はあくまで武士の身分を示す一つの呼称となります。
正確さとは少しかけ離れますが、イメージをつかむために現代の会社を思い浮かべてください。
将軍が社長だとします。すると、鎌倉時代の御家人はその会社の社員全員を指します。この場合、社員は全て等しく扱われ、社長⇔社員の関係のみです。
ところが、江戸時代の御家人はその会社の下っ端社員のことを指します。社員の中にも、上司がいたり、部下がいたりします。この場合、社長⇔上司⇔部下という関係があります。その部下が江戸時代の御家人にあたります。
要するに、江戸時代になると身分を分ける呼称がより細分化されます。
そのうちの一つとして、御家人という言葉が使われていたのです。
鎌倉時代の御家人のその後
(蒙古襲来 出典:Wikipedia)
①2度の蒙古襲来
鎌倉幕府の将軍と御家人の関係は御恩と奉公によって成り立っていました。
しかし、御恩の新恩給与は新しい土地を与えるというもの。土地には限りがあります。つまり、いつかは新しい土地がなくなります。
この問題により、幕府と御家人の関係が揺らいでいきます。
その大きな原因の一つと言えるのが、蒙古襲来です。2度の外敵の襲来に御家人は幕府の命令で赴き、戦いました。
しかし、その御恩は働きに見合うものではありませんでした。
②御家人の窮乏
蒙古襲来による負担と十分とはいえない恩賞、そして分割相続のくり返しによる所領の細分化と御家人はどんどん窮乏していきました。
また、当時は貨幣経済が浸透してきており、所領を売却することも多くありました。
そういった御家人を救うため、永仁の徳政令も出されましたが、これが御家人の金融の道をふさぐ結果となり、かえって御家人の不満を増大させました。
このように、御家人の困窮が幕府の力の衰退にもつながり、ついには幕府の滅亡を招く要因にもなりました。
まとめ
・御家人とは、鎌倉時代は将軍と主従関係を結んだ武士のこと、江戸時代はあくまで武士の身分を示す一つの呼称。
・鎌倉時代の将軍と御家人は、御恩と奉公の関係で成り立っていた。
・江戸時代の御家人は、一万石以下の家臣のなかで、将軍に謁見できない者を指す。
・鎌倉時代、御家人は徐々に困窮していき、それが幕府崩壊の一要因になった。