江戸を襲った4度の大飢饉。
今回は、『江戸四大飢饉』についてわかりやすく解説していきます。
目次
江戸四大飢饉とは
江戸四大飢饉とは、災害や異常気象などによって起きた以下の4つの大きな飢饉のことです。
江戸四大飢饉
① 寛永の大飢饉:1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)
② 享保の大飢饉:1732年(享保17年)
③ 天明の大飢饉:1782年(天明2年)〜1787年(天明7年)
④ 天保の大飢饉:1833年(天保4年)~1839年(天保10年)
基本的に、江戸時代は寒い気候が続いていた時代で、農作物の不作が続いてしまった時代でした。
その中でも大飢饉として歴史に残されたそれぞれの飢饉は、どのような被害や影響をもたらしたのか、詳しく見ていきましょう。
寛永の大飢饉
1642年(寛永19)~1643年(寛永20)に全国で起きた大飢饉です。
当時の将軍は第3代将軍徳川家光でした。
①寛永の大飢饉の原因や影響
1638年(寛永15)九州で牛疫という感染病が流行し、西日本各地で牛が大量に死んでしまうという被害がありました。
2年後には、北海道にある蝦夷駒ヶ岳という山が噴火し、噴火によって降った灰のせいで現在の青森県などでは凶作が起きてしまいました。
翌年の1641年は、夏には西日本(特に中国や四国地方)で、日照りによる干ばつが起きてしまった上に、秋には大雨で、北陸地方では長雨や冷風などによる被害が出ました。
この年は他にも洪水や虫害など、異常気象が多く発生しました。太平洋側よりも日本海側の方が被害は大きかったといいます。
異常気象による農作物の不作は、翌年まで続くことになります。
農作物の不作が続くということは、人々が食べる物が少なくなってしまうということ。そのため、全国的に飢饉の被害が広がったのです。
また、幕府は武士に対して倹約を推し進めていたなか、参勤交代というお金がかかる仕事もなるべく倹約するようにと呼びかけていました。
武士はお金に困ると、百姓に対してより厳しく農作物を取り上げます。
この幕府と武士の関係も、大飢饉の要因の一つとなったといいます。
結果的には、餓死者は全国でおよそ5~10万人といわれる。
②寛永の大飢饉への対策
1642年(寛永19)将軍徳川家光は全国の大名に飢饉の対策をするよう指示します。
具体的には、倹約や身売りの禁止、うどんやそうめん・饅頭など雑穀を使って作る食品の製造と販売の禁止、被害にあった人々を救助するための救小屋の設置などです。
③寛永の大飢饉のその後
なんとか寛永の飢饉を乗り越え、徳川家綱へと将軍が代替わりした時に「慶安の変」という討幕計画が起きてしまいます。
幕府の武力政治に反対した由井正雪などが、幕府を倒す計画を立てたのです。
計画は幕府によって潰されましたが、幕府はこの事件と大飢饉をきっかけに、百姓が安定した生活ができるようにしていこうとする「百姓成立」を推し進めることになりました。
享保の大飢饉
1732年(享保17)に西日本を中心に起きた大飢饉です。
当時の将軍は第8代将軍徳川吉宗でした。
①享保の大飢饉の原因と影響
1732年(享保16)の末から天候が悪く、年が明けてからも雨は続いて、夏になると冷害や害虫による被害が主に中国・四国・九州地方、特に瀬戸内海沿岸の辺りで広まり、イナゴやウンカなどの虫が大量発生します。
この虫害により、深刻な凶作になってしまいます。
『徳川実紀』という書物によれば、餓死者は約1万2000人にのぼり、この飢饉全体では250万人以上の人が飢えに苦しんだといいます。
また、この大飢饉によって江戸では米不足に悩まされてしまいます。
売られる米が少ないということは、その分米の価格も上がってしまいます。
そんななか、江戸の庶民の間では「米の値段が上がったのは、米商人の高間伝兵衛が将軍吉宗に協力して米を買い占めているせいだ!」という噂が広まります。
この噂がきっかけで「享保の打ちこわし」という、江戸時代最初の打ちこわしが行われました。
②享保の大飢饉への対策
被害に遭っている藩の大名たちに米を送り、幕府直轄の土地にも米を支給しましたが、上がり続ける米の価格が下がることはありませんでした。
また、享保の打ちこわしでは幕府は享保の打ちこわしに関わった中心人物を流罪に処しました。
③享保の大飢饉のその後
この大飢饉のなか、瀬戸内海の大三島という島だけは、餓死者を出さずに済みました。
その決め手は、サツマイモです。
下見吉十郎秀譽という人が、瀬戸内海の島々にサツマイモを伝えたのです。栄養価が高いサツマイモは米が不作のなか庶民たちの命を救いました。
このことを知った将軍吉宗は「今後またいつ飢饉が来るかわからない」と考え、青木昆陽という蘭学者にサツマイモの試作を命じました。
こうして、東日本でもサツマイモの栽培が広く普及することになりました。
天明の大飢饉
1782年(天明2)から1787年(天明7)に全国(特に東北地方)で起きた大飢饉です。
当時の将軍は第10代将軍徳川家治でした。
①天明の大飢饉の原因や影響
津軽地方では1772年〜1781年(安永年間)にはすでに凶作の兆しがありました。
1783年(天明3)の夏には東北地方に冷たく湿った風「やませ」が吹いて、冷害の被害にあいました。
この冷害が飢饉の前触れになるなか、同年の8月5日、長野県にある浅間山が噴火します。
噴火によって灰が広い範囲で降り、特に信濃や北関東地方の被害は大きく、灰のせいで農作物は育たず、飢饉へとつながりました。
大飢饉が起きたのは気象条件や噴火も大きな理由ですが、当時の政治も原因の一つだったと言われています。
封建制度の下に置かれた農民は、厳しい税(農作物)の取り立てに応じなくてはいけません。
加えて、幕府と藩の連携が取れていないため、作物が中央にまで届かず、本当に必要な人のところへ送られないという社会的に悪い状態が、飢饉の被害をさらに広げたのです。
陸奥地方では食べるものに困り、人肉を食べたという話が残されているほどで、八戸藩(青森県)だけでも飢饉の被害者は6万5000人にのぼり、そのうち餓死者は3万人ほどいたと記録されています。
浅間山の大噴火・洪水被害・病死者数を含め、全国で死者数は100万人余となったと言われています。
②天明の大飢饉への対策
農作物の凶作、それによる飢饉によって治安は悪化してしまいます。
江戸では米屋への打ちこわしが起こり、多くの米屋や商家が襲われてしまいました。
この対策として、幕府の老中松平定信は「寛政の改革」を行います。
この改革で幕府は、全国の大名に飢饉に備えるために作物を貯蓄する「囲米」を命じました。
また、財政を安定させるために「とにかく倹約!」と、庶民だけでなく役人などにまで倹約をさせましたが、財政は特に良くならず、失敗に終わることになりました。
天保の大飢饉
1833年(天保4)から1839年(天保10)に全国(特に東北地方)で起きた大飢饉です。
当時の将軍は第11代将軍徳川家斉、12代将軍徳川家慶でした。
①天保の大飢饉の原因や影響
1833年(天保4)の春から夏にかけ、大雨による冷害と洪水の被害が東北地方を中心に東日本の各地に広まりました。
この冷害により作物は凶作し、大飢饉に陥ってしまいます。
凶作のため米の価格は上がって、庶民の生活は大変苦しくなりました。
また、商人に米の値段を下げさせるために一揆や打ちこわしが各地で起こりました。
一旦落ち着いた天候も、1836年(天保7)にはまた冷害に見舞われてしまい、大凶作となってしまいます。
同じように米の価格は大幅に上がり、打ちこわしが各地で起こりました。
甲斐国(山梨県)で起きた百姓一揆「天保騒動」や大阪で起きた幕府に対する反乱「大塩平八郎の乱」は、このような背景があって起きました。
この大飢饉が起きた5年間で人口は125万2000人ほど減少しており、被害は天明の大飢饉と同じくらいではなかったかとされています。
②天保の大飢饉への対策
1833年の飢饉の時には、幕府は江戸で被害にあった人々を救助するための救小屋を21ヶ所設置しました。この時の救済者は70万人を超えたといいます。
また、天明の大飢饉の教訓をもとに、救済者のための食料を備蓄するなどして犠牲者を出さなかった藩もあったと伝えられています。
③天保の大飢饉のその後
各地で起きた一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱は幕府と藩の権力を脅かすものでした。
世直しを求める声があちこちで起こるなか、幕府は「天保の改革」を行うことになりました。
まとめ
・江戸四大飢饉とは災害や異常気象などによって起きた4つの大きな飢饉のこと。
・寛永の大飢饉は全国的な異常気象や幕府の政治が原因で起きた。
・享保の大飢饉は冷夏と虫害が原因で起きた。
・享保の打ちこわしという、江戸時代最初の打ちこわしが起きた。
・天明の大飢饉は冷害、浅間山の噴火、当時の幕藩体制が原因で起きた。
・天保の大飢饉は大雨や洪水による冷害が原因で起きた。