江戸時代初期、幕府は農民に対して自分の田畑を売買することを禁止しました。
これがいわゆる田畑永代売買禁止令です。
今回は、『田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
田畑永代売買禁止令とは?
田畑永代売買禁止令とは、1643年に幕府が代官と農民に出した土地法令の総称です。
この法令により、農民は自分の田畑を売買することが禁止されました。
法令が発布された背景としては、1642年に起こった寛永の飢饉の際に、田畑の売買を通して農民の間で貧富の差が拡大するケースが相次いだという事情がありました。
ところが、江戸時代中期になると、質流れを介した事実上の田畑の売買が容認されるようになり、禁止令は緩和されていきました。
田畑永代売買禁止令が出された背景
①田畑の売買
農民が田畑を売買する行為は、中世から近世にかけて広く存在していました。
例えば、不作により年貢が払えずに困窮した農民が、さしあたりの収入を得るために自分の田畑を売る場合などがありました。
田畑の売買には主に3つの方式がありました。
✔ 1つ目の方式:「本物返売」または「本銭返売」
これは、現代の感覚から言えば、売買というよりも、ほとんど質入れと同じです。しかし、質入れの場合と違って、本物返売(本銭返売)では利子は発生しません。農民は売り払ったときと同じ金額で田畑を買い戻すことができます。
他方、農民から田畑を受け取った側は、田畑を保有している期間内にその田畑で取れた収穫物を自分のものにすることができました。つまり、その収穫物を売ったお金が利子の代わりとなったのです。
✔ 2つ目の方式:「年季売」
これも、本物返売(本銭返売)と同じく質入れに近い方式ですが、年季売の場合は、本物返売(本銭返売)とは違って、一定期間に限って田畑を売買します。そのため、田畑を売った農民が買い戻しをしなくても、所定の年限が過ぎれば、田畑は戻ってきます。いわば田畑のレンタル料を取るという感じです。
しかし、時代が下ると、本物返売(本銭返売)と年季売の区別は、だんだん曖昧になっていき、しばしば同じ事態を指す言葉だと受け取られるようになりました。
✔ 3つ目の方式:「永代売」
これが今で言うところの「売買」に当たるもので、田畑永代売買禁止令の取り締まりの対象となりました。
②寛永の飢饉の発生
田畑永代売買禁止令が発布される直前の1642年には、全国規模の大飢饉が起こりました。
これを寛永の飢饉と言います。
飢饉の直接的な原因は、1640年に西日本を中心に全国で起こった牛疫病による牛の大量死、1641年に起こった西日本の干ばつ、虫害、そして北陸・関東・東北地方における長雨と冷気による冷害でした。
これによって、1641年は全国的な大凶作となり、1642年には大飢饉が発生しました。
この飢饉は、1630年代以降重い年貢や軍役に疲弊していた農村の状況に、とどめを刺すことになりました。
田畑永代売買禁止令の目的
寛永の飢饉により疲弊した農村では、困窮した農民が自分の田畑を売り払って没落し、裕福な農民は田畑を買い集めてますます裕福になるという事態が起こりました。
これによって、農民の間での経済格差が急激に拡大しました。
こうした格差が拡大し続けると、反乱や犯罪が起こるなど、治安悪化につながるかもしれません。
そのため、幕府は田畑永代売買禁止令を発布し、農民の間での経済格差の拡大を抑えようとしました。
田畑永代売買禁止令の内容
田畑永代売買禁止令は、実は単独の法令ではなく、1643年3月に出された3つの法令をまとめた呼び方です。
その3つとは次のものです。
- 「堤川除普請其外在方取扱之儀ニ付御書付」第3条
- 「在々御仕置之儀ニ付御書付」第13条
- 「罰則」
①「堤川除普請其外在方取扱之儀ニ付御書付」第3条
「堤川除普請其外在方取扱之儀ニ付御書付」は、幕府から代官に向けて出された全7カ条の法令です。
その第3条には、「裕福な農民は田畑を買い取ってますます裕福になり、貧しい農民は田畑を売り払ってますます貧しくなるので、今後は田畑の売買を禁止する」という内容が書かれています。
②「在々御仕置之儀ニ付御書付」第13条
「在々御仕置之儀ニ付御書付」は、幕府から農民に向けて出された全17カ条の法令です。
その第13条には「田畑永代之売買仕間敷事」とあり、田畑の永代売買を禁止しています。
③「罰則」
法令を破って田畑の永代売買をした場合、売り主と買い主の両方に厳しい罰が課せられました。
まず、売り主は牢に入れられた後に追放されます。売り主本人が死亡していた場合には、その子供に同じ罰が課せられました。
一方、買い主は牢に入れられた上で、買い取った田畑は没収されました。
これも、買い主本人が死亡していた場合には、その子供に同じ罰が課せられました。
しかし、そもそも貧しい農民が田畑を売り払わなくてはならなかった要因は、年貢を払えなかったことにありました。
そのため、どれほど田畑の永代売買を禁止しても、禁止令を知った上で売買を行う農民が少なからずいました。
田畑永代売買禁止令のその後
①質流れを介した永代売の容認
田畑永代売買禁止令は発布以来、少なくとも形式的には江戸時代を通して維持されましたが、元禄期になると法令の抜け穴が容認されるようになり、取り締まりはいったん緩和されました。
その抜け穴とは、質流れを介した永代売です。
まず、農民が質屋に自分の田畑を預けて、お金を借ります。
普通ならば、農民は期限までに利子を含めたお金を返済し、田畑を取り戻すのですが、このときお金を返済しなければ、田畑は質流れして他の所有者のものになります。
これを意図的に行えば、質流れを介して事実上田畑を売買することができました。
もちろん当初はこの抜け穴も取り締まりの対象でしたが、1695年に出された「質地取扱に関する十二カ条の覚」で、このような質流れを介した永代売が一部容認されました。
②質流地禁止令の発令
ところが、質流れを介した永代売が頻繁に行われた結果、田畑の権利関係が複雑化し、農民の間の経済格差が拡大したため、1722年に幕府は質流地禁止令を発布しました。
これにより、質流れを介した永代売も再び取り締まりの対象となりました。
しかし、この取り締まりによって、各地で質地騒動が起こりました。
ひどい場合には、農民が質屋に押し入って、無理やり証文を奪い取るという事態も見られました。こうした騒動を受けて、結局幕府は翌1723年に質流地禁止令を撤回します。
これ以降、田畑永代売買禁止令は緩和の方向に向かいました。
1744年には幕府は禁止令の罰則を大幅に緩め、これにより禁止令は事実上撤回されることになりました。
ただし、禁止令が正式に廃止されたのは、明治時代に入ってからです。
1872年の太政官布告第50号で廃止が発表されました。
まとめ
✔ 田畑永代売買禁止令とは、幕府が農民に対して自分の田畑を売買することを禁じた土地法令の総称。
✔ 1642年に起こった寛永の飢饉の際に、田畑の売買を通して、農民の間で貧富の差が拡大したため、1643年にこの禁止令が出された。
✔ 禁止令を破って田畑を売買した者には、厳罰が課された。
✔ 江戸時代中期になると、質流れを介した事実上の田畑の永代売が容認され、禁止令は緩和されていった。
✔ 禁止令が正式に廃止されたのは、明治時代の初めである。