
以仁王の反乱から始まった源平の戦い。
この戦は一ノ谷や屋島などを経て壇ノ浦にて最終決戦が起こります。
今回はそんな源平の戦のクライマックスである『壇ノ浦(だんのうら)の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
壇ノ浦の戦いとは?
(壇ノ浦の戦い 出典:Wikipedia)
壇ノ浦の戦いとは、平安時代の末期に現在の下関海峡で行われた源氏と平家の最終決戦のことです。
この戦によって平家は滅亡。治承・寿永の乱が終結しました。
壇ノ浦の戦いが起こった背景
(平清盛 出典:Wikipedia)
①以仁王の挙兵
1180年、当時京都では保元の乱と平治の乱で勝利し、1167年に武士として初めて太政大臣となった平清盛らその一族が支配していました。
しかし、公家や源氏としてはこの状態は許せないものです。
特に当時、院政を開きたかった後白河上皇は最初の頃は協力していたものの、徐々に清盛を嫌っていき、最終的には鹿ケ谷の陰謀で清盛を失脚させようとしますが、この陰謀は発覚し失敗。
後白河上皇は幽閉されて代わりに、平家の血筋が強い安徳天皇を新しい天皇に仕立て上げます。
(安徳天皇 出典:Wikipedia)
この頃になると平家の所領は全国66ヶ国のうち32ヶ国を治める大勢力となり、もはや平家は敵なしになっていました。
しかし、安徳天皇が天皇に即位したせいで天皇になれなかった以仁王(もちひとおう)がこれに反抗して挙兵。各地に平家打倒の手紙を送ります。
(以仁王 出典:Wikipedia)
でも、この平家打倒の動きは事前に清盛に察知しており以仁王は平家の大軍に攻められ宇治で戦死。これで邪魔者は排除されました。しかし、この以仁王の挙兵の影響がのちに平家に暗い影を落とすのでした。
②源頼朝の挙兵
以仁王が全国各地に送った平家打倒の手紙はやがて平治の乱以降落ち目であった源氏の本拠地である関東地方に広がり、伊豆に流されていた源頼朝にも届きます。
(源頼朝 出典:Wikipedia)
頼朝からすれば平家は父親である義朝を殺されたまさに仇。これは最大のチャンスと思ったでしょう。
頼朝は8月に監視していた山木兼隆を殺害して伊豆にて挙兵。石橋山の戦いで惨敗はしたものの、関東の武士たちをまとめ上げて西に侵攻します。
これに対してやばいと思った清盛は急いで平維盛を大将とした大軍で頼朝と富士川で向かい合いますが、平維盛が戦のことをあまり知らず、まさかの水鳥の飛ぶ音に驚いて撤退するという軍人としてありえない方法をとり、頼朝は戦わずして勝利します。
③清盛の死と都落ち
富士川の戦い以降平家は劣勢に追い込まれ、全国各地で平家討伐の動きが出てくる中1181年に死去。
平宗盛がリーダーとなり、平家を動かしていくことになるのですが、清盛の死後から2年後、信濃で挙兵した木曽義仲が加賀(石川県南部)と越中(富山)の境で倶利伽羅峠の戦いで平家を撃破し、京都に上洛します。
こうして平家は義仲に押される形で京都から脱出。安徳天皇を連れて西へと落ち延びていきました。これを都落ちといいます。
④一ノ谷の戦いと屋島の戦い
木曾義仲の上洛によって平家は都落ちをすることになりましたが、この木曾義仲という人がかなり乱暴者で京都の人や公家からあまり好かれておらず最終的には謀反人として源義経によって討伐されてしまいます。
このゴタゴタの間に平家はなんとか京都にほど近い一ノ谷(現在の神戸市)に本拠を置くまでに勢力を回復していました。
しかし、源義経はこんなことをいとも簡単に見逃すわけありません。
義経は家臣の武蔵坊弁慶とともに一ノ谷へと向かい、鵯越という崖の上から馬で奇襲を仕掛ける『鵯越の逆落とし』を決行。
この頃もはや戦に慣れていなかった平家の軍はこの義経の奇襲攻撃に大混乱。再び安徳天皇と三種の神器を持って讃岐の屋島に逃げます。
さらに、義経は平家が逃げた先である屋島にも侵攻。海から攻めるように見せかけておいてまさかの陸からの奇襲に再び平家は大混乱。
二度受けても懲りなかった平家は西に西に逃げてそして今回のメインの戦である壇ノ浦で激突することになるのです。
壇ノ浦の戦いの経過と結果
(安徳天皇縁起絵図 出典:Wikipedia)
①平家の様子と戦いの始まり
屋島の戦いで敗北したのち、平家の本拠地は下関市近くの彦島に移りますが、平家の頼みの綱であった九州は源範頼によって攻略され、さらに屋島を制圧した後の義経も西に攻めていきます。
もはや万事休すの状態でしたが、ここで降伏しても手遅れ。平家は彦島近くの壇ノ浦に水軍を構えて源氏の軍を待ち受けます。
しかし、平家としたら1つの勝算がありました。元々平家という家は平清盛の父である忠盛が瀬戸内海の海賊を討伐してから発展していった家であるため、水軍には自信があります。
そしてついに義経率いる源氏の水軍が壇ノ浦に到着。戦が始まりました。
最初の方はやはり水軍に慣れている平家の軍が力を見せて源氏を圧倒。壇ノ浦近くの潮の流れに乗って徐々に押し返していきます。
「勝てる。勝てるぞ!」とこの時平家の武将たちは思ったことでしょう。しかし、これは時が経つにつれて絶望に変わっていくのです。
②潮の流れの変化と平家の滅亡
徐々に劣勢になっていく源氏の水軍。
しかし、昼頃になってくると次第に平家に有利な潮の流れの向きが変わっていき、なんと最終的には潮の流れが逆転。源氏が有利な方向に変わってしまいました。
さらに、義経がイライラしていたのかは知りませんが、当時戦のルールで禁止されていた船の漕ぎ手に向かって矢を集中砲火。どんどん平家の漕ぎ手はやられていき、平家の水軍は大混乱に陥ります。
もはやこれまで。そう思った平家の主な武将は船から海に入水。平知盛は敵を抱えながら海に飛び込むという壮絶な入水をしました。
さらに、平家に連れられていた安徳天皇もこのままでは源氏に捕まってしまい何をされるかわからないという理由で、母である二位尼とともに入水。三種の神器を抱え込みながら「海の下にも都はあります」と母に諭されながら運命を共にしました。
こうして平清盛の頃にあれだけ隆盛を迎えていた平家はこの戦いにて滅亡。平家物語の『おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』のようにはかなく終わったのです。
壇ノ浦の戦いのその後
(壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた浮世絵 出典:Wikipedia)
壇ノ浦の戦いが終わった後、源義経は平家の総大将である平宗盛を偶然捕縛。大将を連れてくるという大戦果をあげて鎌倉に向かいます。
しかし、源頼朝はこれが気に入らない。このままでは何もしていない頼朝に変わって義経が源氏のトップになるのではないのか恐れるようになっていきます。
さらに義経が京都に帰ってきたときに検非違使(判官)に任命されたことによって頼朝の義経に対する敵対心は決定的なものに・・・。
頼朝は大激怒して義経を鎌倉に入れず、義経は仕方なく京都近くの近江で平宗盛を斬首としました。
こうして平家を滅ぼした源氏は頼朝と義経による泥沼の兄弟喧嘩に突入していくことになるのです。
まとめ
✔ 壇ノ浦の戦いとは現在の関門海峡にて行われた源氏と平家の戦いのこと。
✔ 壇ノ浦の戦いの戦いの前に源氏は平家に一ノ谷戦いや屋島の戦いで勝利していた。
✔ 壇ノ浦の戦いは最初は潮の流れに乗った平家の方が有利だったが、昼頃になると潮の流れが変わり、義経が船の漕ぎ手を矢で殺したこともあり決着がついた。
✔ 戦さの後、平家の主な武将は海に沈み、安徳天皇と母の二位尼も海に入水した。
✔ 義経は平宗盛を連れて鎌倉に向かったが、頼朝はそれを許さずのちの争いに繋がった。