【代表越訴型一揆と惣百姓一揆の違い】わかりやすく解説!!それぞれの特徴・内容など

 

江戸時代後半になると、農民たちは領主などの不満から一揆を起こすようになりました。

 

これは百姓一揆と呼ばれていますが、時期によって一揆の名前、形態が違っていました。

 

今回は、代表者越訴型一揆と惣百姓一揆の違いをわかりやすく解説していきます。

 

代表越訴型一揆と惣百姓一揆の違い

 

代表越訴型一揆も惣百姓一揆も両方とも江戸時代に発生した領主・藩主に抵抗する百姓一揆の種類となります。

 

日々の生活でいっぱいいっぱいの農民に対し、領主は年貢増税を行い、さらに農民に負担をかけていきました。

 

そして、飢饉が発生すると不作により農民の生活がより苦しくなることから、年貢増税を撤廃するように要求する一揆が発生していました。

 

百姓一揆は主に時期によって、形態が変化する等、以下のような違いがありました。

✔ 代表越訴型一揆

  • 時期…17世紀後半
  • 形態…越訴
  • 参加者…代表者一人(義民)
  • 要求内容…年貢増税の撤廃

 

✔ 惣百姓一揆

  • 時期…18世紀から19世紀
  • 形態…強訴、打毀
  • 参加者…村全員、藩全域など広範囲の農民(全藩一揆)
  • 要求内容…年貢増税の撤廃、専売制の反対

 

代表越訴型一揆について詳しく

①代表越訴型一揆の時期

17世紀後半に起こった農民の代表者が年貢増税等に反対し、領主・将軍に対して直訴することを代表越訴型一揆と言います。

 

1640年頃より、「寛永の大飢饉」が発生し、西日本での牛疫と蝦夷駒ケ岳が噴火による陸奥での凶作が重なりました。

 

翌年も夏の干ばつや秋の長雨など異常気象が続き、翌々年まで不作となり、農民たちの生活はとても苦しくなりました。

 

飢饉の影響で農民が苦しい生活をする中、幕府や藩も財政難に苦しんでいたため、藩主は農民に対し、増税を行っていきました。

 

農民は不作に加え、増税の負担が増え、藩に対し不満を募らせるようになりました。

 

②代表越訴型一揆の内容

そこで、増税を撤廃してほしいと思った農民たちは、どうにか藩主に願い出たいと考えるようになりました。

 

ただ、当時はお願いがある場合にいきなり藩主に言うのではなく、代官を通して藩主にお願いをしていました。

 

しかし、代官は農民のお願いを聞いてはくれません。

 

そこで、農民の代表者が農民を代表して、お願い(越訴)をするようになりました。つまり、名前にあるように「代表」者が「越訴」する百姓の「一揆」でした。

 

代表者は、代官や奉行を通り越し、直接、領主や将軍に嘆願書を提出しました。

 

この直訴を行った代表者は処罰されることから、一揆において、自身の生命や財産をかけて活動した代表者「義民」と呼び、崇められました。

 

③代表的な代表越訴型一揆

◎佐倉惣五郎一揆

1653年に佐倉藩にて佐倉惣五郎によって行われた越訴です。

 

佐倉藩の農民は、藩主による重税政策により苦しい生活を送っていました。

 

名主たちは、奉行や家老に藩主の増税を撤廃するように要求しましたが、認められませんでした。

 

そこで、佐倉惣五郎はひとり、4代将軍徳川家綱の乗っている駕籠を待ち、将軍に嘆願書を渡す駕籠訴を行いました。

 

要求は聞き入れられ、佐倉藩の領民は救われることとなりましたが、佐倉惣五郎の一家は磔等の死罪となりました。

 

◎磔茂左衛門一揆

1681年に沼田藩にて杉木茂左衛門によって行われた直訴です。

 

沼田藩主である真田信利の悪政を訴えるべく大老を訪ねますが、門前払いに合い、話を聞いてもらえませんでした。

 

杉木茂左衛門は嘆願書をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に嘆願書を将軍に届けさせました。

 

嘆願書は5代将軍徳川綱吉に届けられ、藩主真田信利は罰せられることとなりました。

 

杉木茂左衛門は処罰を免れるはずでしたが、伝言する使者が間に合わず、杉木茂左衛門一家は磔刑に処されてしまいました。

 

惣百姓一揆について詳しく

①惣百姓一揆の時期

18世紀頃になると、今まで自給自足で生活していた農民の間でも、商品生産や流通が広がるようになりました。

 

しかし、領主は年貢増税、特産物の専売制の設定を行い、農民の成果を奪っていきました。

 

また、18世紀前半に享保の飢饉、後半に天明の飢饉、19世紀に天保の飢饉など江戸四大飢饉が起こっており、農作物の不作が続き、農民の生活は苦しい時代でした。

 

 

②惣百姓一揆の内容

この当時、村の階級制はほとんどなかったことから、増税・専売制に不満を持つ農民が一致団結し、領主に抵抗し、増税撤廃を要求していきました。

 

そのため、惣百姓一揆は大規模かつ広範囲で全農民にわたる一揆であり、特に一揆が藩全域におよぶものは「全藩一揆」と呼ばれていました。

 

これらの惣百姓一揆は、以前の代表越訴型一揆のような嘆願書を渡すだけの越訴ではなく、集団で圧力をかける「強訴」や家財を壊してまわる「打毀」によっての要求でした。

 

このような過激な方法による一揆は19世紀には「世直し一揆」へと形を変えていくことになりました。

 

 

代表越訴型一揆では、代表者1名のみが処分されたことから、惣百姓一揆では、嘆願書に署名をした代表者をわからなくする傘連判状(からかされんぱんじょう)が利用されていました。

 

③代表的な惣百姓一揆

◎元文一揆

1738年に磐城平藩で起こった、年貢増税に反対する一揆です。

 

米価の高騰、日光東照宮の修繕など磐城藩は財政難に陥っており、藩主は、それを農民への増税によってまかなおうとしました。

 

すでに苦しい生活をしていた農民たち約2万人が集まり、21か条の嘆願書を示しながら、城下に押し寄せ、打毀をしながら、城下を占拠し、城の取り囲みを行いました。

 

藩主は話し合いの末、農民たちの要求を認める姿勢を見せるも一転し、要求を拒否。農民たちを処分していきました。

 

一揆の指導者の8人が死罪とされ、農民の処罰ののち、藩主も配置換えの処罰をうけました。

 

◎伝馬騒動

1764年に助郷(労役に一種)の追加負担に反対する一揆です。

 

江戸幕府は朝鮮通信使の来日に伴う納入金の要求とともに、徳川家康没150回忌に備えて助郷村に対し、人員と馬を提供するようにとする政策をとりました。

 

この負担に反対する百姓の組織が作られ、村役人を賛同する農民が組織に加わったことで、一気に騒動は中山道沿いに広がっていきました。

 

創造に参加した農民は20万人を超えるとも言われており、江戸まで飛び火することを恐れた江戸幕府は、助郷の追加負担政策を取り下げ、騒動を収めようとしました。

 

しかし、農民の一部が暴徒化し、街道沿いの富裕層の家を襲撃する打毀へと発展していき、中山道は一時マヒしてしまいました。

 

幕府は多数の農民を処罰し、特に名主であった遠藤兵内を首謀者と認定し、投獄の処分としました。

 

まとめ

 飢饉により農民の生活が苦しい上に、年貢増税を課されることに対し反発し一揆が発生する。

 代表越訴型一揆は、農民の代表者が増税撤廃等を領主や将軍に直接お願い(越訴)をすることだった。

 越訴を行った代表者(と一家)は処罰されてしまった。

 代表者は「義民」として崇められた。

 惣百姓一揆では、広範囲の農民が集まり、年貢増税や専売制の反対を行った。

 特に一揆が藩全域に及ぶものを「全藩一揆」とよんだ。

 惣百姓一揆では、強訴や打毀などに過激な方法がとられていた。