日本の政治や文化が大きく変わった転換点でもある明治時代。
この頃に今の日本にもつながるような様々な西洋の文化や風習が入り日本の仕組みや風習が大きく変わっていきました。
今回はそんな『文明開化』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
文明開化とは?
(文明開化 画像引用元)
文明開化とは、日本が明治時代に入った時に生活様式がどんどん西洋化していったことを言います。
簡単にすると日本が近代化したと考えたらいいです。この文明開化によって日本の様子はガラリと変わることになりました。
文明開化に入った背景
1853年に浦賀にペリーが来航したことによって日本は開国。
これまでオランダの限られた西洋技術しか入ってこなかった日本は一気に西洋の新しい文化に触れることができるようになりました。
さらに、これまで日本の政治を動かしてきた江戸幕府が1868年に崩壊すると、新しくできた明治新政府は西洋に負けないように西洋の技術を取り入れ、西洋の様な中央集権国家を建設していくことになります。
これを機に日本全体で西洋の文化を取り入れる文明開化が始まるのです。
文明開化の様式変化
文明開化は色々な日本の風習や文化を変えることになりますが、一体どんなものだったのでしょうか?
①制度改革
明治時代に入ると明治新政府は遅れていた政治システムや制度を西洋に追いつくぐらいまでにするために立て続けに新制度を設けます。
例えば太陽暦の採用、これまで日本は太陽太陰暦という月の満ち欠けを基準とした暦を使っていましたが、1873年(明治6年)の時に太陽の動きを基準としている今と同じ暦である太陽暦を採用しました。
さらに曜日制度もこの時整えられ西洋みたいに日曜日を休日とします。
また、これまでの武士という階級をなくし、国民全員が兵隊として国のために働くようになったのもこの時期からです。
これまでは幕府の他に藩という幕府に従っているけど独立国家みたいな地域がありました。
しかし、廃藩置県によって藩がなくなると政府は中央集権的な国家を作り、国民全員が日本のため、そして天皇のために頑張るようになったのです。
また、日本は殖産興業という国が主導として西洋式の工場をバンバン建てたり、徴兵制度というこれまで武士に頼ってきたのを変えて農民などの一般市民を兵隊として徴用し始めたのもこの時です。」
②文化・風習の変化
江戸時代以前は日本では仏教の教えなどもあり牛や豚などの肉食が避けられてきました。
しかし、明治時代に入ると西洋の料理なども同時に入ってきて、日本では一転、牛を使った料理である牛鍋(すき焼きみたいなもの)が大流行しました。
また、1871年(明治7年)には政府が断髪令を発令して日本ではちょんまげではなくざんぎり頭がスタンダードな髪型となりました。
(さんぎり頭「高杉 晋作」)
『ざんぎり頭を叩いてみたら文明開化の音がする』という言葉は今でも有名ですね。
ちなみに、服装が袴などの和服から洋服に様変わりしたのはこの頃です。
しかし、日本人は日本の文化の素晴らしさを残すために和魂洋才という西洋の風習は一応取り入れるけど基盤は日本の風習にするという考え方の元に文化を発展させていきました。
つまり、今日本に西洋文化があるのに対して日本の文化が根強く残っているのはこのような考え方があってこそというわけです。
③交通手段
江戸時代以前は日本での交通手段は駕籠か馬か徒歩でした。
しかし、明治時代に入ると1872年(明治5年)には新橋〜横浜間で鉄道が開通。以降全国各地に路線網が広がっていきました。
また、明治時代には普通の鉄道だけではなく、鉄道馬車というレールの上を走っている馬車や、人車軌道という一見、レールの上に入っている鉄道に見えるんだけど実際は人が押して運転している鉄道などいろんな種類の鉄道が走っていました。
また、明治時代には駕籠に変わって人力車が登場し、この頃の重要な移動手段として重宝されました。
人力車は今のタクシーみたいなものでした。
④通信手段
これまでの日本の通信手段では飛脚という足がとんでもなく早い人が手紙をリレー方式で繋いで届けるという方法が最速でした。(最速といっても11日はかかったそうです)
しかし、ペリーの黒船来航の時にアメリカから電信という画期的な通信システムが伝来してきました。
この電信を使えば電気が届くところなら一瞬で伝えられることができ、さらには世界の大都市にも情報がすぐに届けることが出来るという優れものでした。
電信は1873年に東京〜長崎間が開通。ウラジオストク経由で東京から海外の通信が可能となりました。
さらに1871年には郵便制度が日本で開始。手軽に速く情報が伝えられるようになりました。
⑤建築様式
明治時代になるとホテルや小学校や工場などの建物を全国各地に建てなければいけなくなりました。
さらに、西洋の文化や技術を取り入れるためにこれらの施設はレンガ建築ような洋式の建築技術が採用されます。
しかし、木造建築の建物しか建てたことのない日本の大工たちはレンガのような石を使う建築技術を知りません。
そこで大工たちは洋式の建築技術を見よう見まねで建設する擬洋風建築が誕生しました。
そしてその擬洋風建築は官庁街や工場や学校などに使われ、明治時代のシンボルとなりました。
(山形県の擬洋風の官庁街 出典:Wikipedia)
文明開化による思想の輸入
①啓蒙思想の伝来
文明開化によって様々な西洋の文化が入ってきましが、さらに西洋の政治思想なども入ってきました。
元々日本では士農工商という身分制度があり、その枠組みの中で生活するのが当たり前でしたが、西洋の文化が入ってくると明治政府は西洋のように国民は全て平等とする四民平等を制定しました。
こうすることによって政府からすれば国民全員を兵隊にすることが出来たり、国民全員から税金を徴収できたりできるなど政府としても都合がよかったのです。
また、これによってこれまでえた・ひにんとして人間としての扱いをされていなかった人も人間として扱われるようになりました。
②自由民権運動の起こり
こうした流れはのちに起こる自由民権運動にもつながってきます。
知識人や思想家などは明治政府が一部の人だけで動かしていることを批判し、そんな政治でなく西洋のように民主的な憲法を作り、国民から選ばれた人が国会を通じて政治を動かしていくような世の中を目指すようになります。
これを自由民権運動といいますが、明治時代はこの自由民権運動を通じて国民が政治活動した時代でもありました。
そしてその流れはアジア初の憲法である大日本帝国憲法や帝国議会開設を通じて、のちに起こる大正デモクラシーへとつながっていくのです。
文明開化はこのように西洋の文化を取り入れただけではなく、日本国民の意識そのものを変えてしまった大きな転換点だったのです。
まとめ
✔ 文明開化とは明治時代の頃に西洋の文化を取り入れて、近代化していったこと。
✔ 文明開化によって日本に鉄道が開通したり、レンガ建築の建物が建てられたり、さらには牛肉が流行したりした。
✔ 文明開化によって西洋の政治思想も入り、自由民権運動につながっていった。