大きな改革を行うには時には、本当はあまり関係のない人によって成し遂げられることがあります。
しかし、その人がカリスマ性を持っていたら国は大いに発展して豊かになります。今の時代にもそんな人がいればいいのですがね・・・。
さて、今回説明する文久の改革もそんな改革の1つでした。
今回は、文久の改革の内容やその改革が起こった経緯をわかりやすく解説していきます。
目次
文久の改革とは
文久の改革とは、1862年(文久2年)から江戸幕府で行われたさまざまな政治改革のことです。
この改革は幕府自身がやったわけではなく、薩摩藩主の父であった島津久光が主導となって行いました。
文久の改革が起こった経緯
(一橋慶喜 将軍後 出典:Wikipedia)
①桜田門外の変による幕府の大パニック
1858年から江戸幕府では井伊直弼とは考え方が違い、一橋慶喜を将軍にしようとしていた一橋派の大名が謹慎処分などの処罰を受けてしまいます。
しかし、1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府は一転、一橋派の大名を許して幕府に復帰させます。
桜田門外の変による幕府の権威の失墜や将軍の跡継ぎ問題などで幕府内では大パニックが起きていました。
幕府からしたら外国との対応、尊王攘夷派の取り締まりをしている時に幕府の実質トップが暗殺されてしまいましたからね。それはそれは大騒ぎだったそうです。
②和宮降嫁と坂下門外の変
桜田門外の変の後幕府のトップとなった安藤信正はパニックとなった幕府を立て直すために、公武合体という朝廷と幕府が力を合わせて政治をしていこうという考えになりました。
そして、当時の将軍であった徳川家茂と孝明天皇の妹でもあった皇女和宮の結婚を進めていきます。
しかし、尊王攘夷派の人たちからしたら『天皇の妹が幕府の将軍に嫁ぐなんてもってのほか!ありえない!』と思うはずです。だって天皇は神なんですから。
そして、1862年安藤信正は坂下門外を歩く途中に襲撃を受け、背中に傷を受けて丸腰で逃げました。これを坂下門外の変といいます。
しかし、幕府の重要なポストである老中が背中を見せて逃げるのは、さすがに幕府の面目は丸つぶれとなってしまいます。
結果的に安藤信正は老中をやめさせられ、謹慎となってしまいました。
改革に燃える男 島津久光
(島津久光出典:Wikipedia)
幕府がパニックを起こしている時に鹿児島では、兄である島津斉彬の跡を継ぎ兄が果たせなかった夢を成し遂げようと燃えている人がいました。
その男の名は島津久光。この男が薩摩藩を明治維新の立役者としていくのです。
島津久光は京都に向かい幕府の改革に参加しようとしますが、薩摩藩は外様大名、さらに自身は藩主の父という立場でしたが、無位無官(ランクもなければ役職もない)な人でした。
そこで久光は朝廷から勅令を出してもらって、表では朝廷の代表として参加するという立場になります。
しかし、幕府の許可を得ずに勅令を出すのは違反。しかし当時の幕府にはそれを止める権力なんてもうありません。だって止めたら安政の大獄の二の舞になってしまいますから・・・。
そして久光は江戸に到着して、朝廷の勅使として改革をすることになります。
ですが、幕府からしてみたらこれまで政治に口出ししてこなかった朝廷がいきなり幕府に指図するようになりました。
しかし、不満も心の中にしまっておくしかなかったのです。
改革の内容
文久の改革は幕府の制度や決まり、さらには西洋技術の取り入れたりしていました。ここではそれらの内容を見ていきましょう。
①人事改革
幕府の人事改革としてまず一橋慶喜が将軍後見職となりました。将軍後見職とは当時まだ幼かった徳川家茂をサポートする役です。
さらに松平春嶽を政治総裁職に任命します。これはいわゆる大老みたいなポジションで幕府の政治などをしていました。
さらに京都には尊王攘夷派の人を取り締まるために、これまでいた京都所司代の上に新たに京都守護職という役職も作ります。京都守護職には会津藩主であった松平容保がなりました。
久光の目的は幕府の立て直しを図るだけではなく、安政の大獄によって幕府から追っ払われていた一橋派の人たちを幕府に呼び戻そうとする目的がありました。
②制度改革
この改革では参勤交代の制度がガラッと変わりました。
前までは2年に1回江戸に行くことになっていましたが、大名の参勤交代を3年に1回に変えてさらに江戸にいる日にちも1年から100日と変えました。
また、人質として江戸に置かれていた大名の妻と子供も大名の領地に帰ることを許しました。
この改革は徳川家光が武家諸法度を作ってからの根本からの改革だったため、国内外に大いに反響を呼ぶことになりました。
③西洋技術の取り入れ
西洋に日本が追いつくために、この改革では西洋技術の取り入れることに力を入れていました。
これまでの蘭学(オランダなどの西洋の技術)を調べるために作られていた蕃書調所を洋書調所に名前を変えて、さらに西洋技術を取り入れました。
また、軍隊も西洋化を進めてさらに服装もこれまでの旧式のものを取りやめ、もっと実用的な服装に変わりました。
文久の改革の影響
文久の改革は朝廷からの口出しで始められた改革だったため、幕府の権威に著しいダメージを与えるようになりました。
そのため、これから先朝廷の権威がどんどん上がっていくようになり、翌年には将軍が上洛する命令も従わなければいけなくなってしまいました。
その結果、幕府はさらに大混乱して幕府の寿命がただでさえ縮んでいたのにさらに縮むことになってしまいます。
さらに薩摩藩や会津藩を中心とする公武合体派と長州藩を中心とする尊王攘夷派の対立も出てきてしまい、これが八月十八日の政変につながっていくことになるのです。
また、久光側も江戸から帰る時に生麦村で大名行列を横切った外国人を殺していまします。
この生麦事件という事件によって、薩摩藩はイギリスと戦争するという大ピンチを迎えてしまうことになるのです。
まとめ
・文久の改革は島津久光が中心となって行った改革のこと。
・改革の内容は人事改革を始め制度の改革だったり西洋技術の取り入れなど。
・この改革は朝廷の命令によって行われた改革となっていたため幕府の権威が下がってしまった。