かつて日本はアメリカと激しい戦争を繰り広げていました。太平洋戦争です。
その太平洋戦争で最初に行われた日米の戦いが真珠湾攻撃になります。
今回はなぜ真珠湾を奇襲したのか。理由や背景など『真珠湾攻撃』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
真珠湾攻撃とは?
(炎上するアメリカ戦艦 出典:Wikipedia)
真珠湾攻撃とは、1941年(昭和16年)12月8日にアメリカ・ハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地を日本海軍の空母機動部隊が攻撃した出来事のことを言います。
アメリカ太平洋艦隊は戦艦群が大打撃を受け、日本の奇襲作戦は成功しました。
しかし、宣戦布告が予定より遅れ、攻撃が宣戦布告前に行われたため、アメリカ国民の日本への反感を高める結果になってしまい、太平洋戦争へと突入していくことになります。
真珠湾攻撃に至る背景
(真珠湾上空を飛ぶ日本戦闘機 出典:Wikipedia)
①日本の南方進出に対するアメリカの反発
終わりの見えない日中戦争を打開しようと、日本は北部仏印(今のベトナム北部)、南部仏印(今のベトナム南部)へ軍隊を進めます。
ベトナムを経由して中国へ援助物資が輸送されていたので、それを止めようとしたのです。
しかし、これはアメリカやイギリスとの対立を深める結果になりました。
特に1941年の南部仏印進駐はアメリカとの関係を修復不可能なところにまで悪化させてしまい、太平洋戦争への道を突き進むことになります。
当時の日本は石油の大半をアメリカから輸入しており、南部仏印進駐によってアメリカが日本への石油の輸出を禁止する決定を下したからです。
海軍には石油の備蓄が1年半分しかなく、このままではいずれ軍艦や航空機を動かすことができなくなります。
海軍の中には石油が足りない状態でアメリカと戦争状態になることを恐れる意見が増え、早期に開戦することを考える人たちも出てきました。
②主力兵器としての戦艦
現在では軍縮の対象になり、主力兵器として認識されているのは核兵器です。
しかし1941年当時はまだ核兵器はなかったので、主力兵器になっていた兵器は戦艦でした。
より大きな大砲であれば射程距離が大きいので、相手の大砲より大きなものを戦艦に載せておけば、有利に戦闘ができます。
大きな大砲を積むには大きな戦艦を作るしかありません。これが大艦巨砲主義です。
相手よりより多くの有能な戦艦を持っておくことが戦闘を優位に進めるポイントになります。
③日米決戦のシミュレーション
日本海軍は仮想敵国としてアメリカを設定していました。一番敵になる可能性があるのがアメリカ、ということです。
軍隊は仮想敵国に対して戦力を整え、作戦を考えていきます。
日本海軍は日米開戦になれば日本にハワイから米軍が進出してくると考え、潜水艦などで敵戦力に少しずつダメージを与えながら日本近海で主力が待ち受け艦隊決戦を挑む、という作戦を立てていました。
日露戦争以来、日本海海戦のような艦隊決戦が考えられていたからです。
決戦の想定海域は当時日本領であったサイパン沖でしたが、アメリカもまた同様の作戦を考えていました。
しかし、1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六はまた別の考えを持っていました。
(昭和17年頃の山本五十六 出典:Wikipedia)
それは航空戦力を用い、開戦と同時にハワイを攻撃し敵艦隊を撃滅する、とうものです。
アメリカを良く知る山本五十六は、長期戦になっては日本に勝ち目がなく、何としても短期決戦で決めなくてはいけないと考えていました。
そのためには敵艦隊主力を早期に撃滅し、アメリカの戦意を喪失させようとしたのです。これが真珠湾攻撃の原案になります。
しかし、事前のシミュレーションでは敵戦艦5隻、空母2隻を撃沈するのと引き換えに、味方機動部隊は全滅するというものでした。
このように攻撃そのものの失敗の可能性も高く、真珠湾攻撃はアメリカ世論を刺激する要素もあるため海軍内に反対する人も多かった中、山本五十六は強い意志でこの作戦を進めていきます。
こうして真珠湾攻撃に向けて兵器開発や訓練などの準備が整っていきました。
真珠湾攻撃の決行と戦果
(第3次近衛内閣 出典:Wikipedia)
①対米交渉の決裂
1941年7月に成立した第3次近衛内閣は南部仏印進駐を行います。
これによって悪化した対米関係を改善するため、交渉を進めますがなかなかうまくいきません。
首相の近衛文麿はアメリカ大統領のルーズベルトと直接交渉を画策しますが、こちらも実現しませんでした。
交渉に行き詰まった近衛内閣は崩壊し、陸軍大臣だった東條英機が次の内閣を作ります。
(東條英機 出典:Wikipedia)
東條内閣も25年かけて中国から撤兵することなどを材料に対米交渉を進めますが、アメリカは日本の譲歩案を拒否、中国からの完全撤兵など日本には受け入れられない内容のハル・ノートを提示しました。
これを日本側は最後通告と受け取り日米交渉は決裂。日本は対米開戦を決意します。
②真珠湾攻撃
(海軍機を満載して航行する日本母艦 出典:Wikipedia)
11月26日択捉島に集結していた空母6隻を主力とする日本海軍機動部隊がハワイに向けて出港します。見つからないように行動するため、困難な北方航路を使ってハワイに向かうことになりました。
12月1日、御前会議において対米宣戦布告が決議され、翌日機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二○八」の暗号電文が送られます。
ニイタカヤマ(新高山)というのは当時日本領だった台湾のにあった山の名前です。富士山よりも高い山で、ここでは作戦決行の意味を表しています。そして一二○八(ヒトフタマルハチ)というのは、その日が12月8日であることを意味しています。
日本時間12月8日午前1時30分、機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分に第二波攻撃隊として171機が発進しました。
約2時間後攻撃が開始されます。ハワイ時間では12月7日午前8時前のことでした。日本海軍の奇襲は成功。第一波攻撃隊から機動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号電文が打電されます。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」という意味です。
アメリカ側は全く予測していなかったので大混乱に陥りました。
第一撃の攻撃隊が帰ってきた後、一部の空母では二撃目の攻撃隊の準備を整えますが、機動部隊を率いていた南雲忠一は味方の損害を最小限に防ぐために一撃のみで日本に引き返すことにしました。
③戦果(戦死者)
(日本軍に撃沈されたアメリカ戦艦 出典:Wikipedia)
日本側は空母6隻全て健在。その他の主な艦船も失ったものはなく、特殊潜航艇という5隻の決死隊のみの損失でした。
また未帰還だった飛行機も29機のみ。戦死64名、捕虜1名という損害でした。
一方アメリカ側は戦艦4隻沈没、1隻大破、1隻中破、2隻小破、戦死2,345名と日本側の一方的な勝利に終わりました。
真珠湾攻撃のその後
(日本への宣戦布告の署名する米大統領ルーズベルト 出典:Wikipedia)
①アメリカ世論が主戦派に
ヨーロッパではドイツがイギリスに対して攻勢をかけていました。アメリカはイギリスを助けたかったものの、世論は非戦派が主流派でした。
当初の予定では日本が宣戦布告した後しばらくして真珠湾攻撃を行うものでしたが、外交官の不手際もあり宣戦布告が遅れていました。
このため真珠湾攻撃が宣戦布告前に行われてしまい、アメリカからすると不意打ちを食らった形になりました。
これをきっかけにアメリカの世論は「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に主戦論に傾いていきます。日本と戦うということは日本の同盟国であるドイツとも戦うことになります。それはアメリカ大統領ルーズベルトの望みでもありました。
日本は真珠湾攻撃を行うことで、アメリカの戦力を大きく損失させ戦意を失わせるのが目的でしたがまるで逆効果になってしまったのです。
戦意を失わせれば早期に決着もつけられるだろう、という目論見だったのですがそれもあてが外れてしまいます。
②航空主兵時代の幕開け
当時、航空機による戦艦などの撃沈は不可能と考えられていました。
しかし、この真珠湾攻撃とその2日後に起きたマレー沖海戦で航空機の有効性が浮き彫りになります。特にマレー沖海戦では、日本軍機により航行中のイギリス戦艦が撃沈されました。
真珠湾では停泊中の戦艦でしたから、ショックの大きさはマレー沖海戦のほうが大きかったようです。
こうして大艦巨砲主義時代は終わり、航空主兵時代になっていくのですが、緒戦で成功した日本軍のほうが考え方の切り替えがうまくいかず、敗れたアメリカのほうが機動艦隊中心の海軍を作っていくことになります。
③アメリカ海軍空母は健在
真珠湾攻撃で戦艦を沈められたアメリカ軍ですが、ハワイにあった戦艦を修理するドッグなどの港湾施設や重油タンクなどの補給施設の被害はほとんどありませんでした。
被害にあった戦艦8隻のうち6隻は修理されてのちに戦列に復帰します。
また空母は真珠湾におらず、被害を受けていなかったのでその後主力として活躍することができました。
その後日本軍は空母の存在に悩まされ、それがミッドウェー海戦につながっていきます。
まとめ
✔ 真珠湾攻撃は日本軍機動部隊によるハワイのアメリカ海軍基地への攻撃のこと。
✔ 緒戦で敵戦力に大損害を与えることで短期決戦へ持ち込もうとした。
✔ 攻撃は成功したものの、短期決着の目的は果たすことができなくなってしまった。
✔ 大艦巨砲主義から航空主兵主義の時代へ移り変わっていった。