【亀戸事件とは】わかりやすく解説!!なぜ起こった?事件の背景や内容・その後など

 

関東大震災後は首都機能の喪失と甚大な被害に伴い、社会は混乱していました。

 

その中で様々な事件が起きており、亀戸事件はその中の一つとして知られています。

 

日本では関東大震災を機に「治安維持のためにする罰則に関する件」と呼ばれる後の治安維持法の前身になる勅令が出されており、思想の弾圧が過激になっていた時代でもあります。

 

その後に訪れる思想弾圧の時代の始まりとも言えます。

 

今回は『亀戸事件(かめいどじけん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

亀戸事件とは?

(関東大震災後の神田方面の惨状)

 

 

亀戸事件とは、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災から2日後の9月3日に大震災後の混乱中に起きた事件です。

 

事件の内容は社会主義者である10名の市民が警察にとらえられ、陸軍の習志野騎兵第13連隊によって殺害された事件となります。

 

震災後の日本では様々なデマ・噂などから自警団による多くの殺傷事件(関東大震災朝鮮人虐殺事件など)が起きました。

 

しかし、この事件は軍活動の一環として、混乱に乗じて社会主義者を殺害したという意味で他の虐殺事件などと異質のもので、白色テロ(国家による反対論者への暴力的な弾圧)の一つといえます。

 

当時は社会主義者・共産主義者に対する弾圧が強く、社会的にも公認されてしまう背景がありました。

 

戒厳令の下で陸軍の罪は問われず、無罪となった事件です。

 

亀戸事件が起きた時代の社会的な背景

 

亀戸事件が起きた背景には様々な要因があります。

 

そもそもですが、日本政府は様々な独立運動に対して警戒心を抱いており、地震前に朝鮮の独立運動として発生した三・一運動や台湾で起きた抗日運動(西来庵事件などのデモ)を武力によって鎮圧していた状態でした。

 

 

特に朝鮮人に対しては民族的な差別意識が強く根付いていた事もあり、差別が常態化していました。

 

また、日本国内で大正デモクラシーを機とした労働運動などをはじめとした社会主義活動が活発化している状況で、原敬首相の暗殺や第一次世界大戦後の恐慌から社会体制が不安定となっている時期でもありました。

 

 

また、対外的にはロシア革命が成立した事で誕生したソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の存在は日本のみならず各国の脅威として捉えられていました。

 

日本では共産主義思想の拡大を防ごうとしており、それに加えて米騒動などにみられる大衆による社会運動化への取り締まりを強化しようと考えていました。

 

1921年には過激社会運動取締法案(後の治安維持法の元)を国会に提出(衆議院によって否決された)するなど、確実に弾圧を強化しようとしており、1922年には非合法組織として創立された日本共産党の構成員に対して弾圧し検挙をする事も起きました。

 

亀戸事件の内容詳細とその後

 

亀戸事件は、1923年9月3日に関東大震災後の混乱した東京府南葛飾群の亀戸町にて起きた事件です。

 

社会主義者であった平沢計七川合義虎・加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八の10名が亀戸警察署によって捕らえられ、9月3日から翌4日にかけて帝国陸軍の騎兵第一旅団の中の一つである習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件となります。

 

殺害現場は亀戸警察署内か荒川の放水路にて殺されたとされています。

 

なお陸軍が関与したきっかけは川合らが留置所で扇動する可能性があったため、近くに駐屯していた軍に警察が応援を求めたためとされています。

 

①亀戸事件の被害者

殺された10名のうち、平沢計七と中筋宇八を除いた8名は南葛労働協会のメンバーでした。

 

彼らは広瀬自転車で起きた争議などにおいて様々な活動を行っており、攻撃的であったため、亀戸警察にマークされている存在でした。

 

特に川合は若くして共産活動家として行動力があり、日本共産青年同盟(後の日本民主青年同盟、民青)の委員長でもありました。

 

大震災が起きた際に、南葛労働協会の人間は被災者救援活動を行っていたとされています。

 

平沢計七は劇作家としても知られていて、プロレタリア演劇の第一人者。

 

南葛労働協会の人間ではなかったのですが、純労働者組合という組織を結成し代表として様々な労働運動に関わっていた人物でした。

 

過激社会運動取締法案廃案のためのデモにも携わっています。

 

②亀戸事件のその後

亀戸事件によって10名の無実な市民が殺害されましたが、この事件がすぐに明らかになる事はありませんでした。

 

事件発生の1カ月後に警察が認めた事もあり、遺族・犠牲者の友人・関係者らによる糾弾活動が行われました。

 

しかし、戒厳令下に基づいた適正な軍事活動とされ、処罰されることなく陸軍は不問となりました。

 

震災下におけるそのほかの事件

(関東大震災朝鮮人虐殺 出典:Wikipedia)

 

 

震災直後の混乱の中で亀戸事件に類似する事件や、数多くの殺傷事件があったとされています。

 

なおこれらの事件はどれも責任追及が進むことはありませんでした。

 

大震災後、社会的に軍部や政府、警察の活動として被災者の救済に加え、治安維持が求められたため、むしろ軍部の行動は歓迎されていました。

 

また、自警団による犯罪は「愛国心」によるとして情状酌量される事となりました。

 

震災後の混乱によって生じた事件で殺害された人数は、吉野作造の調査によると2600人とされていますが正確にはわかっていません。

 

①甘粕事件(大杉事件)

関東大震災時の事件として特に有名なのが甘粕事件(大杉事件)です。

 

1923年9月16日に、アナキストである大杉栄とその妻の伊藤野枝、そして甥っ子の橘宗一の三名が憲兵隊特高課に連行され、殺害された事件です。

 

大杉は平民社の参画などで知られていて、また伊藤は平塚らいてうの青鞜社に関わった事でも知られています。

 

分隊長であった甘粕正彦憲兵大尉の責任とされましたが、実際には上級の命令者がいたと推測されています。

 

 

②本庄事件

本庄事件は、1923年9月4日に起きた朝鮮人殺害事件です。

 

地震直後から様々な流言が流れていて、「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に朝鮮人が毒を入れた」というデマがあったとされています。その恐怖から関東各地では自警団が作られていました。

 

埼玉県でも同様に自警団が組織され、県内全域で朝鮮人狩りが行われ、暴力行為にエスカレートしたことで死傷者が出るようになりました。

 

100名ほどの人が亡くなったとされています。

 

しかし、ほとんどの事件で軽い罪に問われる、もしくは証拠不十分で無罪として取り締まられました。

 

③福田村事件

福田村事件は1923年9月6日に、香川県の行商団が千葉県の自警団によって暴行され9名が殺害された事件です。

 

香川の行商団が福田村の利根川沿いで休憩をしていた時、「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」と興奮状態の自警団200名が言葉を浴びせ、仲裁に入った駐在巡査が本署への確認を行いに行ったところ、暴行が起きたとされています。

 

加害者は福田村の自警団と隣接する田中村の自警団員でした。

 

この事件では加害者は起訴されていますが、昭和天皇の即位に伴って恩赦となっています。

 

まとめ

 亀戸事件は関東大震災後の混乱の中で生じた事件だった。

 政府として共産革命や社会運動を排除する機運が高まっていた。

 亀戸事件は混乱の中で、意図的に労働運動家を殺害した事件である。

 亀戸事件に類似する事件には甘粕事件があり、また混乱期の事件としては本庄事件や福田村事件などがあった。