「国民政府を対手(あいて)とせず」というセリフで有名な近衛声明。
中華民国との対話を拒否し、日中戦争との講和を放棄したこの声明は、アメリカとの開戦を決定づける転機の一つになりました。
今回は、この『近衛(このえ)声明』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
近衛声明とは?
(第一次近衛文麿内閣 出典:Wikipedia)
近衛声明とは、1938年に第一次近衛文麿内閣が対中国政策について述べた声明のことです。
声明は同年中に3回出されましたが、その中でも「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と宣言した第一次近衛声明がよく知られています。
近衛内閣は3回の声明を通して、中華民国国民政府が現状の方針を維持するかぎり対話をしないことや、日中戦争の目的が「大東亜秩序建設」にあることを表明しました。
このような強硬な声明を出したことで、アメリカの対日政策は厳しくなりました。
近衛声明が発表された背景
(盧溝橋事件の発生 出典:Wikipedia)
①日中戦争
1937年7月7日の盧溝橋事件を発端に、日中戦争が勃発しました。
当初、日本は「中国に一撃を与えれば、降伏するはずだ」という楽観論を持っていましたが、中国が予想外の徹底抗戦をしたため、日本側はそのたびに増派を繰り返し、ついには全面戦争に突入してしまいました。
それから1年ほどの間に、日本軍は中国の主要な都市や交通路をほぼすべて占領しましたが、その背後に広がっている農村や内陸の奥地までは支配できませんでした。
そのため、中国全土を掌握するような大規模な作戦を実施する余裕はなく、せいぜい占領した都市を防衛するくらいしかできませんでした。
これにより、短期決戦を目指して始まった日中戦争は、戦局を打開できないまま、ジリ貧の状態になっていきました。
②国共合作
1920年代~1930年代の中国(中華民国)には、中国国民党と中国共産党という2つの政治勢力がありました。
両党は初めから激しく対立していましたが、1924年~1927年にかけては北方軍閥に対抗するために協力しました。これを第一次国共合作と言います。
ですが、その後は再び対立が激化し、内戦状態に陥っていました。
ところが、1930年代半ばから、日本が中国侵略を本格化すると、これに対抗するために、中国共産党は1935年に抗日民族統一戦線を提唱し、再び中国国民党に協力を呼びかけました。
そして、1937年7月に日中戦争が勃発すると、両党は内戦を中断して、一致団結して抗日運動を進めることを決めました。
これが第二次国共合作です。
③トラウトマン工作
そのような中で、近衛内閣は日中戦争の早期解決のため、1937年11月~12月にかけて国民政府(中国国民党による政府)と水面下で交渉し、和平工作を進めました。
当時ドイツの駐中国大使だったオットー・トラウトマンが交渉を仲介したため、この工作は「トラウトマン工作」と呼ばれています。
トラウトマン工作は、かねてから日中戦争の不拡大を唱えていた石原莞爾参謀本部第一部長が、旧知の間柄だったトラウトマンに日中和平の仲介を依頼したことに始まります。
それを受けて、1937年11月2日には、広田弘毅外相が駐日ドイツ大使のディルクセンとトラウトマンを介して、国民政府の蒋介石との交渉を開始し、日本の和平条件を伝えました。
(蒋介石 出典:Wikipedia)
これに対して、蒋介石はブリュッセル会議が開催中であることを理由に、11月5日に和平交渉をいったん拒絶しましたが、12月2日には一転して和平交渉に応じる意向を示しました。
しかし、12月上旬に日本軍が南京を占領し、日中戦争の戦況が一変すると、近衛内閣は強気な態度に出て、12月26日に賠償や領土割譲を含む強硬な和平条件を蒋介石に突き付けました。
これに対する蒋介石からの回答がなかったため、近衛内閣は翌1938年1月11日の御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定し、国民政府が全面降伏しないかぎり、新たな政権を擁立して対処するという強硬策を表明しました。
その後、交渉継続を求める参謀本部と、交渉打ち切りを主張する政府との間で対立が起こりましたが、結局近衛内閣は1月14日の閣議で和平交渉の打ち切りを決めました。
こうしてトラウトマン工作は不発に終わりました。
近衛声明の内容
(近衛文麿 出典:Wikipedia)
和平交渉の打ち切りを決めた近衛内閣は、1938年に3回の近衛声明を出しました。
①第一次近衛声明
まず、交渉打ち切りを決めた閣議の2日後である1月16日に出した第一次近衛声明では、「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と宣言しました。
これは、今後国民政府との対話を拒否するという強硬な態度を示すものでした。
②第二次近衛声明
第一次近衛声明の発表後、日本軍は中国に決定的な打撃を与えることができず、戦局は泥沼化していきました。
当初、近衛内閣は「前年に南京が陥落したのだから、あと少し中国に打撃を加えれば、国民政府は全面降伏するはずだ」という楽観論を持っていましたが、もはやその考えは修正せざるをえなくなりました。
そこで、近衛内閣は11月3日に「東亜新秩序声明」を発表しました。これが第二次近衛声明と呼ばれるものです。
この声明のポイントは2点ありました。
東亜新秩序とは、日本を盟主として東アジアに大規模な経済圏を作るという構想で、欧米のブロック経済に対抗したものです。もちろんこの目的は建前ではありましたが、これにより日中戦争の性格が大きく変化しました。
✔ 二つ目のポイント
二つ目は、国民政府が中国共産党と手を組んで日本に対抗する政策(抗日容共政策)を放棄するならば、日本側は和平交渉に応じることを示した点です。
これは、「国民政府を対手とせず」と述べた第一次近衛声明の強硬姿勢を修正するものでした。
このような修正の背景には、親日反共だった中国国民党副総理の汪兆銘を擁立し、日本の傀儡政権を立てるという思惑がありました。
③第三次近衛声明
近衛内閣は11月30日の御前会議で決定された「日支新関係調整方針」にもとづいて、12月22日に第三次近衛声明を発表しました。
その中で、今後の中国との関係を、善隣友好・共同防共・経済提携という3つの原則にもとづいて進めることが示されました。
いわゆる「近衛三原則」と呼ばれるものです。
他方、それと呼応するように、日本への降伏を容認していた汪兆銘が、12月に密かに重慶を脱出し、ベトナムのハノイを拠点にして、日本との和平交渉を進める準備を始めました。
そして、汪は12月29日にハノイから国民政府に宛てて、日本との和平を決断するように電報を送ります。
日本側は汪のこうした働きかけによって、国民政府が降伏を決意したり、内部分裂を引き起こしたりすることを期待していました。
ところが、現実には国民政府の中で汪の提案に賛同する者は少数にとどまり、国民政府の降伏や内部分裂は起こりませんでした。
近衛声明によるその後の影響
近衛声明は、1937年7月から続いていた日中戦争を和平交渉によって終結させる道を閉ざしました。
この意味で、近衛声明は日中戦争の行く末を左右する重要な転機だったと言えます。
また、この声明によって、アメリカの対日政策は途端に厳しくなりました。
その結果、日米両国は日米通商航海条約の破棄、対日経済制裁の実施、日米交渉の決裂を経て、1941年12月の太平洋戦争開戦へと突き進んでいきました。
まとめ
✔ 近衛声明とは、1938年に第一次近衛文麿内閣が対中国政策について述べた声明のこと。
✔ 声明は同年中に3回出された。
✔ 第一次声明では、「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と宣言し、国民政府との対話を拒否する強硬な姿勢を示した。
✔ 第二次声明では、日中戦争の目的が東亜新秩序建設にあることを示すとともに、国民政府が抗日容共政策を放棄するならば、対話に応じると述べた。
✔ 第三次声明では、今後の中国との関係について、善隣友好・共同防共・経済提携という3つの原則を示した。
✔ このような強硬な声明を出したことで、アメリカの対日政策は厳しくなった。