田沼意次による経済政策が幕を閉じ、賄賂が横行して腐敗しきった世の中を正し、幕府の権威を取り戻そうと老中である水野忠邦が改革を行います。
上知令はその改革の一環で行われました。
この上知令は、庶民たちからは田沼の時代がよかったと言われ、身内からも不満の声が上がってしまいます。どのような法令だったのでしょうか。
そこで、今回は『上知令』が出された背景や内容・結果など簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
上知令とは?
上知令とは、江戸や大阪などを納める大名や旗本に領地の約50万石を返上(上げ知)させ、代わりとして付近の土地を支給するという法令のことです。
「じょうちれい」、または「あげちれい」あと読みます。
この上知令は、天保の改革の政策の1つで、倹約令や人返し令、株仲間の解散などとともに行われました。
上知令がだされた背景
①幕府の衰えと水野忠邦の登場
18世紀後半から19世紀にかけて列強(アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなど)の接近が目立ってきます。
新しい市場を求めていた諸外国は、鎖国をしていた日本との国交を開こうと、漂流民を保護して届けるなど日本との接触をしきりに図ってきました。
当時、幕府は外国からの脅威に加えて、財政難などもあり支配力が衰えていました。
そこで幕府の権威を取り戻すべく、11代将軍徳川家斉の死後、12代将軍徳川家慶のもとで水野忠邦が老中に就任し、改革を行いました。
(水野忠邦 出典:Wikipedia)
水野忠邦は肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)の藩主、水野忠光の次男として生まれ、18歳で家督を継ぎます。
出世欲がとても強い人物だったようで、時には賄賂も使って昇進していきました。
②天保の改革の発令
幕府の支配力が衰えている中、水野忠邦は天保の改革を発令します。
江戸時代の三大改革とも称される享保の改革、寛政の改革を参考に行われました。
天保の改革では、さまざまな取り組みが行われましたが、その大きな目的は、贅沢を控えさせ、節制をすることでした。
具体的な改革の内容は以下のようなものがあります。
その中の一つが「上知令」となります。
天保の改革の内容
✔ 倹約令
ひっ迫した財政を立て直すため、贅沢品を禁じました。この対象は庶民の風俗だけでなく、将軍や大奥にまでおよび、内部からの反発はかなり大きかったようです。
✔ 人返し令
幕府の収入源であった年貢が減ってしまった対策として、都市に出稼ぎに来ていた人たちを農村に返しました。しかし、そもそも農村で仕事がない人々が都市に出稼ぎにきていたこともあり、人を農村に帰しても年貢を増加させることはできませんでした。
✔ 株仲間の解散
物価高騰の原因だと考えられていた株仲間を解散し、価格の自由競争を狙いますが、流通システムが乱れ混乱を招きました。
✔ 棄捐令
困窮した旗本や御家人を救おうと、札差(旗本や御家人の代わりに蔵米を受け取って現金化したものを届けたり、金貸し業を行ったりする商人)からの借金を帳消しにしたり、無利子にしたりした令。大打撃を受けた旗本は休業に追い込まれ、お金が借りられなくなった旗本や御家人はより一層財政難に陥る結果となりました。
✔ 上知令
?????????(↓で詳しく解説していきます)
上知令の具体的な内容
幕府は江戸や大阪の十里四方(約1500平方キロメートル)を幕府の直轄地にするべく、そこに領地を持つ旗本や大名に領地を返還せよという命令を出しました。
その代わりに、もともとの領地の近くにまとまった土地を替え地として与えようとしました。
もともと与えられていた領地は、場所が離れてしまった飛び地であったケースも多く、新たにまとまった土地を手に入れられるということで、この令を喜んで受け入れた旗本や大名もいました。
しかし一方で、突然自分たちの領地を取り上げられた上に、自腹で引っ越しまで強いられることに反発する声も上がりました。
また、反対したのは旗本や大名たちだけではありません。そこに住む農民たちも反対運動を起こしました。
実は農民たちは財政難だった旗本や大名に多額のお金を貸しており、領地替えに際して踏み倒されるのではないかと懸念したのです。
上知令の目的
将来的に攻めてくると予想される外国に対抗するため、幕府の権力を再認識させ、対外脅威への対策強化を狙いました。
また、大阪や江戸は年貢の量が多く、これらの土地を幕府のものにすることで、幕府の収入アップを図りました。
天保の改革の総仕上げともいえる、水野忠邦の渾身の政策でした。
上知令の結果
結論から言うと、上知令は実施もされないまま失敗に終わります。
理由としては土地の返上を命じられた諸大名たちが猛烈に反発し、とても実施できる状況ではなくなってしまったためです。
旗本や御家人たちからすれば、突然引っ越せと言われても莫大な資金がかかりますし、米がしっかり取れる土地を手放したくはなかったわけです。
いわば、水野忠邦の理想だけが先走ってしまい、周りの人々についてきてはもらえませんでした。
外国からの脅威から日本を守るための政策としては、決して間違っていたと言いきれませんが、理想と現実は大きくかけ離れていたようです。
上知令のその後
上知令を含めた天保の改革は失敗に終わり、さらなる混乱を招きました。
家慶からの信頼を失った水野忠邦は、老中を解雇され失脚します。
幕府と地方の信頼関係も危ういものとなり、幕府より裕福な薩摩藩や長州藩はどんどんと力をつけていきます。
さらにはペリー来航により、幕府はさらに苦しい状況に陥っていきました。
この流れが1867年に江戸幕府が明治天皇に政権を返還する大政奉還へと繋がっていきます。
実は明治時代にも上知令はだされた
上知令は江戸時代に出されたのち、明治時代にも1871年と1875年の2度出され、江戸時代に認められていた寺社領(寺院と神社に与えられていた領地)の返還が命じられました。
列強からの脅威がより一層強まっており、それに対抗するために支配権を一つにまとめる必要がありました。
急務となった中央集権化を押し進めるため、政府は以下のような様々な政治的取り組みを行なっていきます。
✔ 版籍奉還・・・1869年に明治政府の命によって、版(人民)と籍(土地)を朝廷(天皇)に返還したこと。実質的には、人民と土地を中央政府の管理下に置くことが狙いでした。
✔ 廃藩置県・・・版籍奉還が進められたあとも藩体制が継続していたため、1871年に藩を廃止して県と府を設置する行政改革を行いました。
✔ 地租改正・・・1873年に行った土地と租税制度の改革。新たに村ごとに台帳を作り直し、地価の3%の税金を現金で収めることを命じ、この命令により政府が土地を管理し、安定した収入源を確保しました。
このような政治的動きの一環で上知令も行われ、土地は政府に管理され、支配権も一つにまとまっていったのです。
上知令の語呂合わせ
◎1841年 天保の改革
「人は(18)、よい(41)ことを期待する、天保の改革」
当時の人々も3回目の改革ということで期待も大きかったのではないでしょうか。
◎1843年 上知令
「いや(18)ーようさん(43)上げたなあ」
水野忠邦が将軍たちからたくさんの領地を取り上げようとしている様子をイメージして覚えましょう。
まとめ
✔ 上知令は1843年に、天保の改革の一環として老中である水野忠邦によって計画された。
✔ 上知令は外国からの脅威から日本を守るため、江戸や大坂などの主要な土地を直轄地にし、警備強化と幕府の権威復活を狙った。
✔ 上知令は対外防衛と同時に、米がよく取れ土地を直接支配して財政難を解決しようとする目的があった。
✔ 上知令は領地の返上を命じられた旗本や御家人たちからの反対も大きく、実施できずに終わった。