【学生運動とは何だったのか?】簡単にわかりやすく解説!!目的や背景・その後など

 

第二次世界大戦後に盛んになった日本の学生運動。

 

過激なイメージが強いですが、本来はどういう目的で行われていたのでしょうか?また、その時代背景は何があったのでしょうか?

 

今回はそんな若い世代の大きなエネルギーが炸裂した『学生運動』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

学生運動とは?

 

 

学生運動とは、学生がメインになって学生生活や政治に対して組織をつくり、問題提起や社会運動を行うことです。

 

その起源は中世のドイツにまで遡ります。

 

日本では、1910年代から1920年代の大正デモクラシーの時期に始まり、1960年代から1970年代に最も盛り上がりました。

 

過激な派閥による暴力的な事件が相次いだ後に、学生運動は急速に勢いが衰え、現在は衰退しています。

 

学生運動の目的

①教育機関への運動

学生運動を行っていたのは、主に大学生です。

 

活動をする学生はビラやポスター、看板を作ったり、昼休みに広場で演説をしたりして、自分たちの主張をアピールします。

 

その内容は色々ですが自分たちが通っている大学(教育機関)へ、学費の値上げ反対、学校設備の向上、様々な制度や大学運営の改善などを目的とした運動がありました。

 

②政治的な目的

学生運動は、自分たちが通う大学に対して主張をアピールするだけには留まりませんでした。

 

学生運動が特に盛り上がりをみせた時代は第二次世界大戦が終わり、戦地に行かされたりして学業を犠牲にしていた人たちが、再び大学に戻ってきたときでした。

 

そうした状況のなかで、学生たちは「もう戦争をさせない」「戦争に巻き込まれるような条約を作らせない」という考えを持ちます。こうした政治的な考えが、学生運動につながったのです。

 

しかし、闘争は次第に激しくなり、死亡者や怪我をする人も続出してしまいました。

 

日本の学生運動の主な流れと時代背景

 

 

日本の学生運動は、第一次世界大戦が終わった大正デモクラシーの時期ですが、その後第二次世界大戦が始まると、学生運動は完全に解体されてしまいます。

 

①第二次世界大戦の終結

1945年8月15日、太平洋戦争で日本は敗戦し、1939年から7年にかけて続いた第二次世界大戦はようやく終わりを迎えました。

 

戦争中は完全に解体されていた学生運動の組織ですが、戦争が終わり、学生たちが大学に戻るとすぐに学生運動の組織は復活します。

 

1948年7月に「全日本学生自治会総連合」という学生団体が結成されます。この組織は、全学連と略されます。

 

 

(デモに臨む全学連 出典:Wikipedia

 

 

この全学連は、結成された頃は日本共産党の影響を強く受けていましたが、1955年以降は日本共産党を批判するようになり、共産党からは離れた組織になっていきました。

 

そして、当時の全学連を引っ張っていたのが、1958年に結成された一次ブントとよばれた学生たちでした。

 

②日米安全保障条約の改定

1951年9月8日、日本はアメリカにあるサンフランシスコで、第二次世界大戦の連合国との間で「サンフランシスコ平和条約」を締結します。

 

この平和条約のなかには「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」という、いわゆる旧日米安全保障条約が含まれていました。

 

この条約の改定が行われたのが、1960年1月のことです。当時の岸信介内閣は、アメリカ側と会談し、日米安全保障条約の改定を行います。

 

 

(岸信介 出典:Wikipedia)

 

 

旧条約では、アメリカ軍が日本に基地を置くために、ただ単に場所を提供するという内容でしたが、改定された条約では、日本とアメリカで一緒にお互いの国を守っていこうという内容に変更されました。

 

こうした条約の改定に、反対する運動が起きます。一部の政治家や市民、学生は「改定することによって、日本が戦争に巻き込まれてしまう!」と考えたのです。こうした1960年に改定された安保条約に反対する運動を「安保闘争」といいます。

 

 

安保闘争では、ブント率いる全学連が運動の中心となっていました。安保闘争をめぐるデモなどの運動は次第に激しさを増していきます。そして、デモ隊と機動隊がもみ合いになり、東京大学の学生が亡くなってしまうという事件まで起きてしまいました。

 

結局、岸内閣はこの混乱の責任をとって内閣総辞職をし、新たな内閣が立ち上がると、安保闘争の運動は急に勢いをなくし、全学連も分裂したことで、学生運動の盛り上がりも、落ち着いていきました。

 

③ベトナム戦争反対

1950年代になると、南ベトナム(ベトナム共和国)と北ベトナム(ベトナム民主共和国)による「ベトナム戦争」が起こります。

 

 

この戦争は、南ベトナムを支持するアメリカと、北ベトナムを支持するソ連の対立でもありました。このとき、アメリカとソ連は冷戦状態でした。

 

このベトナム戦争に積極的に兵を派遣して介入したアメリカに対して、世界各国で戦争に反対する、反戦運動が起こりました。

 

日本の学生運動も、このベトナム戦争の反戦運動をきっかけに、また盛り上がりをみせるようになりました。

 

④全学共闘会議

再び盛んになった学生運動は、どんどん過激になっていきます。

 

1967年、当時の内閣総理大臣である佐藤栄作の外国訪問を阻止しようとする集団と機動隊が衝突した「羽田闘争」が起こります。

 

 

第一次羽田闘争 出典:Wikipedia)

 

 

この羽田闘争に参加した学生たちは、ヘルメットに四角い木材(ゲバルト棒とよばれていました)を持っていたので、そのスタイルがそのまま学生運動の定番になりました。

 

1968年になると、今まで学部や支持する政党に分かれて活動していた学生は、自分たちの大学のなかでストライキなどをする際に、チームの垣根を越えた「全学共闘会議」という組織をつくります。略して全共闘とよばれるこの組織は、各大学につくられていきました。

 

東京大学では、医学部生がインターン制度を使って、悪い環境下で研修医として働かされていたことをきっかけに「東大闘争」という学生運動と大学側の対立が起こります。この東大闘争で、東大全共闘が結成され、無期限のストライキや、講堂の占拠を行い、その運動は過激さを増していきました。

 

東大全共闘をきっかけに、全共闘による運動は全国に広がり、多くの国公立大学や私立大学で、学生側と大学側の対立が起きました。

 

学生運動のその後

(血のメーデー 出典:Wikipedia)

①激しくなる暴力

1970年頃までは、学生運動に対して、世間の人々はある程度の共感を持っている人もいました。

 

「世の中を良くしようと学生は立ち上がっているんだ」「若い学生がエネルギーを発散しているんだ」と、まだまだ学生という立場の若者たちを許すような空気が、少なからず世の中にはあったのです。

 

しかし、学生運動の内容はだんだんエスカレートしていき、学生の武装や機動隊などとの武力衝突が当たり前になっていきました。

 

そして、激しくなっていった暴力はついに人の命までを奪うようになり、学生運動は世の中から支持を失うようになりました。

 

②学生運動の停滞

学生運動を行う学生たちの武装のエスカレート、運動の過激さが増していったことで、学生運動は世の中の支持を失うようになります。

 

そして、1972年には、沖縄県がアメリカから日本に返還されたこともあって、日本人の反米感情は薄れていきました。

 

また、高度経済成長期を迎え、戦後の貧しい日本から、産業が豊かな日本になっていくと、学生たちは静かに学生運動から身を引いていったのでした。

 

こうして、1960年頃から盛り上がりを見せていた学生運動は停滞し、その後ほとんどの学生とは縁のない存在になりました。

 

まとめ

 学生運動とは、学生がメインになって、学生生活や政治に対して、組織をつくり、問題提起や社会運動を行うこと。

 学生運動には、自分たちの大学に対する運動や政治的な目的があった。

 第二次世界大戦が終結すると、学生運動はすぐに復活し、「全日本学生自治会総連合」などの組織がつくられた。

 1960年に岸信介内閣が日米安全保障条約の改定を行うのに反対する「安保闘争」が起こった。

 ベトナム戦争に対する反戦運動が、世界的に起こった。

 東大闘争などで「全学共闘会議」が結成され、全国の大学でも学生と大学の対立が起きた。

 学生運動の暴力が激しくなっていったことで、世間の支持を失い、学生運動は衰退していった。