天下の三傑とも言われている「織田信長」「豊臣(羽柴)秀吉」「徳川家康」。
この三人は天下統一を推し進めた人たちなんですが、実は信長の息子と家康が秀吉と戦ったことがあるのです。
今回はそんな戦いであった『小牧長久手の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
小牧長久手の戦いとは?
小牧長久手の戦いとは、1585年(天正12年)に行われた羽柴秀吉と徳川家康&織田信雄との間で行われた戦のことです。
この戦いは唯一秀吉と家康が直接対決した戦であり、この戦によって秀吉は天下統一への一歩を踏み出すことになるのです。
小牧長久手の戦いの原因
この小牧長久手の戦いの背景には、織田家における後継者争いがありました。
1582年に天下統一を目前にして信長が本能寺で倒れ、天下の行く末はわからなくなっていきますが、信長の仇である明智光秀を羽柴秀吉が山崎の戦いで討ちとり、さらに信長の三男信孝や柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒し織田家の実質的な後継者となっていきます。
しかし、これを見て面白くないと思っていた人がいました。信長の次男であった織田信雄です。
信雄は信長の死後伊勢、尾張を領地を与えられさらに長男の信忠も信長と共に死んでいたため、本当なら後継者になるはずでした。しかし、信長の後継者選びの会議である清洲会議にて後継者となったのはまさかの信忠の息子である三法師(当時3歳)。信雄が後継者になることはありませんでした。
(三法師 "織田 秀信" 出典:Wikipedia)
さらにこの後継者を選んだのが秀吉だったのです。これがきっかけで秀吉と信雄の関係は一気に冷え切ってしまうのです。信雄は秀吉と張り合うために信長の同盟者であり三河などの中部地方を治めていた家康と同盟を結びます。
家康は急激に勢力を拡大していた秀吉に危機感を感じており、どうにかして止めなければいけないと思っていました。そこで信長の次男と同盟を結び大義名分を得ることをします。
さらに紀州の雑賀衆や四国の長宗我部、さらに関東の後北条家などの反秀吉派の勢力を集め、信長包囲網ならぬ秀吉包囲網を結成していくことになります。
一方の秀吉も信雄を潰すために信雄の家臣だった3人を寝返らせる工作を行って信雄を挑発します。この工作によって家臣の寝返りに怒った信雄が、その寝返った家臣を処刑。さらに秀吉に対して宣戦布告を行ない、こうして戦いが始まりました。
小牧長久手の戦いの全貌『勝敗結果』
①秀吉の奇襲作戦
秀吉は信雄の領土であった尾張犬山城を占領。それに対抗して家康は近くの小牧山城に入り、両軍は対立状態に突入していきます。
秀吉は家臣であった森長可と池田恒興は家康を攻撃しようとしましたが、これは失敗。20日以上こう着状態がまだ続きます。
これに焦った池田恒興は秀吉に対して奇襲攻撃を提案します。その内容は小牧山城にいる家康を引きつけながら2万の大軍で家康の領内にある重要な城であった岡崎城を攻めるというものでした。
これが成功したらもはや勝ちは確定。秀吉は早速甥の羽柴秀次に2万の兵を与えて岡崎に進軍します。
②長久手の戦い
しかし、家康はそんな羽柴軍の動きを察知していました。なんでわかったのかと思いますが2万の大軍がコソコソと動いていたらそりゃバレます。
家康はそんな羽柴軍に対して逆奇襲を行うために家臣であった榊原康政と井伊直政に対して9千の軍を与えて攻撃を開始します。
これを長久手の戦いといいます。奇襲を受けた羽柴軍は大混乱。総大将だった秀次は命からがら犬山城に戻りますが、池田恒興と森長可はこの戦いによって討死。2万の大軍は壊滅してしまう秀吉最大の敗北となってしまいました。
③信雄と秀吉の和睦
まさかの大敗北を喫してしまった秀吉。さらに西では長宗我部元親が四国を統一し、秀吉は小牧長久手の戦いに集中できなくなっていました。
そこで秀吉は最後の賭けにうってでます。秀吉は家康と戦うのではなく信雄単体と戦う方針に変更し、信雄の領土であった伊勢を攻めます。
羽柴軍は長久手の戦いで壊滅していましたが、まだ5万の大軍がいたため信雄は秀吉の攻撃に耐えられなくなりついに秀吉と和睦(仲直り)してしまいます。
④小牧長久手の戦いの終結
信雄が秀吉と和睦したことは家康に伝わります。実はこの和睦は家康には一切伝えられておらず、信雄の独断の行動でした。
信雄が秀吉と和睦したことで家康が秀吉と戦う大義名分は失われ、家康も秀吉と和睦しなければいけなくなってしまいました。
こうして小牧長久手の戦いは終わりを迎えたのです。
小牧長久手の戦いのその後
①秀吉包囲網の崩壊
秀吉が信雄と和睦したことによって秀吉と対立していた大名たちは孤立してしまいます。
例えば秀吉に反抗し、この頃四国統一を成し遂げた長宗我部元親はその後すぐに秀吉によって四国征伐という形で攻められ降伏してしまい、さらに雑賀衆も攻められ滅んでしまいます。
また、秀吉と仲が悪く、秀吉に反抗していた佐々成政という人は家康になんとかして秀吉に対抗してもらおうと冬の日本アルプスを横断までして家康を説得しますが失敗。最終的に成政の領地であった富山を攻められ降伏します。
こうして秀吉に反抗していた大名はなし崩れ的に倒れていき秀吉包囲網は崩壊してしまいました。
さらに秀吉は小牧長久手の戦いの直後に関白に就任。実質的に天下人となりました。
②家康の秀吉臣従
関白となった秀吉の最大級の課題は家康を臣従させることでした。これが達成すればもう天下統一は目の前。そのため秀吉はなりふり構わず家康に対して工作していきます。
まず、秀吉は自分の妹を家康の正室として家康の親戚となります。こうすることによって家康は秀吉に逆らえにくくなります。しかし、家康はなかなか折れず秀吉の命令を聞かない。
そこで秀吉は最終手段としてお母さんであった大政所を人質として家康に差し出します。
あのお母さん想いの秀吉にこんなことされたらさすがの家康も折れなければまずいと思ったことでしょう。仕方なく家康は秀吉の傘下となりました。
こうして最大の課題を解決した秀吉は九州征伐、小田原征伐を経てついに小牧長久手の戦いから5年後の1590年に天下統一を達成することになるのです。
③信雄のその後
秀吉と和睦した信雄は秀吉によって伊勢北部と伊賀を秀吉に差し出さなければいけなくなってしまいます。これで信雄の領土は半分となってしまいました。しかし、そんな信雄に人生最大のチャンスが訪れます。
小田原征伐を終わらせて家康が関東へ領地を変えさせられるとなんと信雄に三河、遠江、信濃など家康の旧領130万石を与えられます。
しかし、信雄はこれを拒否。これに激怒した秀吉によって残りの半分の領土を没収されてしまい、ついに信雄は浪人となってしまいました。
しかし、江戸時代に入ると信雄は領地2万石を家康から与えられ、信雄の子孫は幕末には山形の天童と呼ばれているところの藩主となっていました。
ちなみに、信長の息子のうち大名として幕末を迎えたのは信雄ただ一人。信雄にはなんとか戦国時代を切り抜けるなにかの魅力があったのかもしれません。
まとめ
・小牧長久手の戦いは羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が戦った戦のこと。
・織田信雄は秀吉のことを嫌っており、家康と同盟を結んでいた。
・小牧長久手の戦いは家康が長久手の戦いで羽柴軍を壊滅に追い込んだが、信雄が秀吉と和睦したことによって終結した。
・その後家康は秀吉に臣従した。