【大政翼賛会とは】簡単にわかりやすく解説!!生まれた背景や目的・崩壊まで

 

日本は1937年に日中戦争に入って以降どんどん日本国内は戦争一色となっていました。

 

そんな時に日本で大政翼賛会という新たな組織が誕生します。

 

今回はそんな戦時中大混乱の時にできた『大政翼賛会』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

大政翼賛会とは?

(大政翼賛会のシンボル 出典:Wikipedia

 

 

大政翼賛会とは、1940年に日本の全部の政党を解散させて新しくできた公事結社のことです。

 

大政翼賛会の大政には天皇の政治という意味があり、それを翼賛(賛成して助けること)という意味があり、日本は実質的に独裁政治に突入していきました。

 

大政翼賛会が生まれるまでの背景&目的

(大政翼賛会本部 出典:Wikipedia

①日中戦争の泥沼化と日本の孤立

1937年に盧溝橋事件が起きて日中戦争が勃発すると、日本はついに外国との関係がこれほどもないほど冷え切ってしまいます。まあ当たり前ですけどね。

 

 

ちなみにこの時のドイツは親中派。中国に軍事援助もしていました。

 

「これでは国際社会からますます孤立してしまう!」そう思った当時の内閣であった阿部内閣と米内内閣は日中戦争がこれ以上拡大するのを阻止して何とか講和に持ち込もうとします。

 

さらに、アメリカやソ連・枢軸国のドイツやイタリアなどとの関係をよくしていこうとしましたが、結果的に軍部大臣現役武官制と内閣不一致というダブルコンボを陸軍にお見舞いされてしまい総辞職に追い込まれてしまいます。

 

米内内閣が倒れたことを受けて次に生まれたのが、日中戦争が勃発した時の首相であり日中戦争が泥沼化した張本人である近衛文麿でした。この内閣を第二次近衛内閣といいます。

 

近衛文麿は「日中戦争をなんとか戦い抜くために国民と政府が一心となればいいんじゃないの?」と思いとんでもない政策を推し進めてしまいます。

 

これを新体制運動と言います。

 

②新体制運動の内容とバスに乗り遅れるな!

新体制運動とは言ってしまえば・・・

 

当時ドイツで行われていた私有財産制の否定と国家への忠誠を無理矢理誓わせる全体主義(ナチズム)。そして、昭和恐慌で苦しんでいる時に悠々自適に経済成長を遂げていたソ連などの共産主義などを日本にも取り入れよう!という運動です。

 

まぁ、これだけでもやばい運動なのですが、近衛文麿はこのやばい運動を推し進めていき日本をドイツやソ連のような指導者が国の今後を決めるという体制をどんどん取り入れていきます。

 

こうすることで国民党と共産党が一応協力しているだけで寄り合い所帯の中国なんてあっという間に倒せる!そう思ったのでしょう。

 

そもそも近衛文麿の出身家である近衛家という家が元々公家のトップである五摂家の筆頭であるので国民からの人気はすごく高く、さらに当時近衛文麿は日本放送協会(NHK)の総裁でしたので、国民に情報を伝えるラジオを全て把握していました。

 

こうした流れで遂に1940年10月に大政翼賛会が成立。全ての政党が解散されてしまい、日本の公事結社は大政翼賛会のみとなってしまいました。

 

(大政翼賛会の発足 出典:Wikipedia)

 

 

また、この頃日本は孤立状態からなんとかしようと枢軸国に急接近。「バスに乗り遅れるな!」という聞いただけで頭がおかしいこのスローガンを中心にドイツとイタリアとの交渉を開始。このことが原因で1940年に日独伊三国同盟が締結され、見事に日本は孤立状態から抜け出すことに成功しました。

 

大政翼賛会の中身

(大政翼賛会幹部 出典:Wikipedia)

 

 

大政翼賛会のトップは内閣総理大臣でその下に中央本部事務局、道府県支部、市区町村支部、そして町内会という国民全員が大政翼賛会に参加出来るようにしました。

 

しかし、この大政翼賛会は近衛文麿が望んでいた総理大臣や天皇が右と言ったら右になるような一致団結できるようなものではありませんでした。

 

そもそもこの大政翼賛会は政治結社ではありません。上にも書いた通り大政翼賛会は公事結社というものでした。

 

『公事結社ってなんだよ』と思うかもしれませんが、公事結社というものは政治には関係せず、公共事業とかを行うようなものです。

 

これだけ見るともう近衛文麿が目指していた一つの政治結社が国内を統制するという理想は破綻してしまっています。

 

実はこれには訳があって大政翼賛会が誕生する前、大政翼賛会を設立するときにとある論争が起きていた。

 

大政翼賛会を作る時に一党独裁にするのですから内閣総理大臣をトップにしようとしますが、日本という国には天皇陛下という憲法にも書かれている国のトップがもう存在していました。そのため、大政翼賛会を作っても日本のリーダーは天皇であると主張してくる人も現れるようになります。

 

もうこの時点でグダグダなのですが、近衛文麿は『大政翼賛会を作る時に国民全員が大政翼賛会にみんな従えばあとはどんな形でもいい』と発言します。

 

本当にナチスやソ連のように日本でも一党独裁体制をしようとしていた人からすれば、絶望しか感じない発言なのですが、これによって大政翼賛会は政党ではないけど独裁を行う組織として成立します。

 

太平洋戦争と大政翼賛会の終わり

(太平洋戦争 日本海軍の攻撃で炎上するアメリカ戦艦 出典:Wikipedia)

①太平洋戦争と翼賛政治

大政翼賛会が成立したから1年。日本は太平洋戦争へと突入していくことになります。

 

ますます戦争のために一致団結しなければいけなくなった日本は軍の言うことに大政翼賛会が従い、さらにその下に国民が従うという翼賛体制という状態となります。

 

大政翼賛会は全ての労働団体と協会を解体して戦争のために動く団体を設立し始めます。

 

さらに1942年には第21回衆議院総選挙が行われます。

 

大政翼賛会は政治結社ではないためこの選挙には関われませんが、そのかわり新たに設立された翼賛政治体制協議会という大政翼賛会の政党版が新たに設立され、466人中381名が当選し無事に与党となりました。

 

しかし、まだ2割が無所属な上に一番戦争に反対だったであろう尾崎行雄が当選しているのを見れば、まだこの時うまくまとめきれていないということがわかります。

 

②大政翼賛会の解散

時代は進み1945年。この頃になると日本はミッドウェー海戦に敗れ日本周辺の太平洋の制海権を失い一気に劣勢になっていました。

 

国内からはアメリカ軍の本土上陸や本土での決戦に備えて行くようにする風潮がどんどん出てきます。

 

それに伴い、大政翼賛会はより強い体制の整備のために大政翼賛会を廃止して国民義勇軍を新たに結成します。しかし、大政翼賛会の解散は少し強引だったのでこれに反発した大政翼賛会の一部が護国同志会という別の組織を結成し、日本の組織は分裂してしまいます。

 

このままでは本土決戦の時に大混乱になるのは確定的です。

 

しかし、日本はアメリカが本土上陸する前に8月15日に日本はポツダム宣言を受諾。本土決戦を行う前に終戦を迎え国民義勇軍も解散してしまいます。

 

日本はのちに作られる日本国憲法の中で結社の自由が記されるようになり、新たな道へと進んでいくことになっていくのです。

 

まとめ

・大政翼賛会とは1940年に近衛文麿によって設立された国内を統一するための組織のこと。

・大政翼賛会によって日本の全部の政党と団体は解散となり、大政翼賛会の中に組み込まれた。

・大政翼賛会は政治結社ではなく、公事結社だったので国内を完全に統一することはできなかった。

・大政翼賛会は1944年に国民義勇軍の設立と同時に解散されるが、そのことが原因で国内で混乱が起きてしまった。