映画などで見かける「天誅!」という言葉、文字からも物騒な気配が漂いますね。
天誅とは天から罰を受ける、または天に代わって罰を与えるという意味があります。
幕末期の京都では、この天誅を理由に人を斬るという暗殺事件が多く発生しました。彼らには人を斬る正当な理由がありました。月に代わって…ではなく、天に代わって世の中を変えるのが自分たちの使命だと固く信じていたのでした。
天(朝廷)に代わって幕府を倒し、外国を打ち払い、朝廷中心の世の中つまり王政復古を目指す尊王攘夷派の志士が集まって結成されたのが天誅組です。
今回は、彼らが起こした『天誅組の変』についてわかりやすく解説していきます。
目次
天誅組の変とは
(天誅組終焉の地の石碑 出典:Wikipedia)
天誅組の変とは、1863年(文久3年8月)に大和国でおこった、尊王攘夷派志士による最初の挙兵事件のことです。
(※大和国とは現在の奈良県のこと)
この事件自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、この後、世の中は武力による倒幕を目指す空気が加速していきます。
そうした機運の先駆けとなったクーデタです。
天誅組の変が起こるまで
①長州藩による攘夷の決行
1863年5月、下関海峡を通過する外国船を長州藩が砲撃するという、外国船砲撃事件が起きます。
これは攘夷派の長州藩が攘夷を自ら決行したものでした。
朝廷もこの攘夷決行を称賛していましたが、6月に入るとアメリカ・フランスの艦隊は長州藩に報復攻撃をします。
敗北した長州藩は両国の力の強さを身をもって思い知らされますが、なおも攘夷の姿勢を崩すことはありませんでした。
②孝明天皇の大和行幸の詔
8月13日、孝明天皇による大和行幸の詔が出されます。行幸とは天皇の外出のことです。
行幸の目的は攘夷の祈願でした。とはいえこれは孝明天皇の意思で決まったものではありません。
長州藩を中心とした急進的尊王攘夷派の志士が同じく尊王攘夷派の三条実美ら公卿を動かし、「攘夷親征」を天皇によって宣言してもらおうと画策したものでした。
天皇が攘夷を宣言すれば攘夷は天皇のお許しを得ているということになります。
この大和行幸は尊王攘夷派にとって大きな意味をもつものでした。
天誅組の変の内容
①大和を目指せ!天誅組の挙兵
大和行幸が決まると、尊王攘夷派の志士たちは居ても立っても居られません。
この行幸をきっかけにして江戸幕府を追いつめ、一気に倒幕を進めようと動き出します。
土佐脱藩浪士の吉村寅太郎は急進的な攘夷派公卿の中山忠光を首領として、松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太のほか土佐・因幡・久留米・肥後などの脱藩士38名で天誅組と名乗り、我こそがこの大和行幸の先鋒となろうと大和国へ向かいます。
ちなみにリーダー中山忠光以外の全員が「草莽の徒」でした。
「草莽の徒」というのは、武士という身分を捨てた人=脱藩した人や、武士身分でありながら農業を営んでいた人のことです。
つまりエリートの道から外れてしまった人たちが天に代わって悪を倒し、世の中を変えようとして集まったのが天誅組なのです。
②代官所襲撃
天誅組一行は兵や武器を集め、河内の庄屋や豪農を合流させながら大和国へ向かいます。
菊の御紋の入った旗と「七生賊滅天後照覧」と書かれたのぼりを作って、自分たちの士気を高めていきました。
そして8月17日、幕府直轄地の大和国五条に到着した天誅組は、幕府代官所を包囲して代官鈴木正信(源内)に降伏を要求します。
代官所には30人ほどの人がいたとされますが、やる気に満ちた天誅組の勢いには適いません。鈴木正信たちは殺され、代官所は焼き払われてしまいます。
8月18日、近隣の村役人たちを集めて天誅組は挙兵の主旨を宣言します。
「我々は天皇の攘夷親征の先鋒をつとめるべく決起した。以後は当代代官所支配の民は『天朝御直の御民』とする。そして日本固有の国体に復古した祝儀として、本年は年貢を半減する」
さらに五条を幕府ではなく「天朝直轄地」と称して、天誅組の組織を整え、自らを「御政府」などと称するとしました。
まだ大和行幸が行われる前に、しかも天皇から頼まれているわけでもないのに、このような宣言を出しているのです。いかに天誅組がやる気に満ちていたかが窺えます。
③運命のいたずらか?八月十八日
しかし大和で天誅組が決起したまさにその頃、京都は状況が一変していました。
その日は1863年8月18日。そうです、八月十八日の政変が起きたのです。
会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が朝廷の実権を握るためにクーデタを起こしたのです。
これによって、三条実美ら尊王攘夷派の公卿が御所から追い出されてしまうだけでなく、御門を警護していた長州藩も解任となり、京都から追放されてしまいます。そして孝明天皇の大和行幸の延期が決定します。
天誅組がこの政変を知ったのは翌19日。さらに天誅組を暴徒として追討せよという命が下されたことも知ります。
孝明天皇の行幸が延期となれば、大和でのこの挙兵は全く無意味となります。
しかしもはや後には退けません。吉村寅太郎はもともと尊王の志が高い大和国十津川郷で1000人近くもの兵と武器を集めます。
④高取城攻撃
(現在の高取城の天守台 出典:Wikipedia)
五条の近隣にあった高取藩は天誅組に従うように脅され、了承しようとしていましたが、京の状況などを知り、態度を翻してしまいます。
そこで8月25日、天誅組は高取城への攻撃を開始します。
しかし約200人程の高取城の兵力は、十津川の兵も含めた1000人超の天誅組を混乱に陥れ、退散させてしまいます。
あれほどやる気に満ちていた天誅組の士気が下がり、明らかにまとまりをなくしていたことが分かります。
事実集められた十津川の兵は半ば脅迫されて集められたので、天誅組のやり方に不満を持つ人が多かったと言われています。
吉村はあきらめずに決死隊を編成しますが、途中で味方に誤って撃たれて重傷を負ってしまいます。
中山忠光は立て直しを図ろうとしますが、吉村ら決死隊は反対し、ついに天誅組は分裂してしまいます。
リーダーたちが分裂してしまった時点で天誅組は全くまとまりのない組織となってしまいました。
天誅組の変の結果とその後
幕府は紀州藩などに天誅組の討伐を命じました。
9月1日には朝廷からも天誅組の追討を督励する触書が出されます。朝廷のために立ち上がった天誅組が、朝廷からも追われてしまうのです。
目的を失った天誅組はもはや逃げることしかできません。大坂方面への脱出を画策します。
そして9月10日、幕府軍は14,000人もの諸藩兵を進軍させ、天誅組に総攻撃を仕掛けます。
まとまりを失った組織に対して送ったこの兵の人数からも、幕府が倒幕を阻止したいと必死だったことがうかがえます。
首領中山忠光の統率力はもはやなく、結成の頃がウソのように天誅組の士気は下がってしまいます。
さらに9月14日、朝廷は十津川郷に中山忠光は逆賊であるという令旨を下します。
十津川郷は尊王の志が高い地域です。朝廷が天誅組を逆賊だと言った途端、十津川の兵たちは中山らに退去を要求。そして9月24日には天誅組は壊滅してしまいます。
天誅組の変の覚え方(語呂合わせ)
天誅組の変は1863年。
尊王攘夷派による倒幕を目指したものでしたが・・・八月十八日の政変などの影響もあって、いや無残(いやむざん=1863)に壊滅してしまいました。
必ず八月十八日の政変とあわせて覚えましょう。
まとめ
・天誅組の変は尊王攘夷派による最初の倒幕挙兵のこと。
・中心人物は公卿の中山忠光と吉村寅太郎ら尊攘派志士。
・孝明天皇の大和行幸決定がきっかけ。
・幕府直轄領の代官所や大名の居城が草莽の志士たちによって襲撃された。
・武力蜂起による倒幕の機運が一気に加速するきっかけとなった。
・年号はいや無残(1863年)。八月十八日の政変とあわせて覚える。