江戸時代の外交といわれて始めに思い浮かぶのは鎖国政策ではないでしょうか。
しかし、鎖国体制というものの本当に国を締め切っていたわけではありません。
今回は、誤解の生じやすい出来事である『鎖国』についてわかりやすく解説していきます。
目次
鎖国とは
鎖国とは禁教と貿易統制を目的に日本人の海外渡航禁止と外国船来航規制をおこなった政策のことです。
そもそも鎖国という名がついたのはいつでしょうか?
別に幕府が「鎖国だ!」と名付けたわけではありません・・・鎖国という名を与えたのは志筑忠雄という蘭学者です。
ドイツ人の医師&博物学者のケンペルという人物の本に載っていた「鎖国」というワードがつかわれたのです。
(エンゲルベルト・ケンペル 出典:Wikipedia)
そして、鎖国といっても幕府が日本を完全に「閉鎖」しようと思って整えた制度ではありません。
いくつかの国とは貿易をしていたのです。
実際、江戸時代の日本は4つの外交窓口『長崎、薩摩藩、対馬藩、松前藩』を持っており・・・
・長崎(幕府が直接管轄したところ)ではオランダと清
・薩摩藩を通じて琉球王国
・対馬藩を通じて朝鮮
・松前藩を通じてアイヌ
と貿易していました。
ここからは鎖国の目的や鎖国が開始されるまでの流れを解説していきます。
鎖国の理由・目的
幕府が鎖国をした目的は大きく2つほどあります。
①外来思想を抑える
鎖国の目的といわれると真っ先に「キリスト教の布教」を抑制することが浮かぶと思います。
当初、幕府はキリスト教を黙認していましたが、キリスト教の布教を通じたスペインの領土的野心、キリスト教を通じた武士同士の結びつきなどが幕府に不信感を与え、幕府は1612年に禁教令を出します。
その後、キリスト教の信仰による団結が大きな要因となった島原天草一揆が起こると幕府はキリスト教の根絶やしを目指します。
その対外政策として実施されたのが鎖国です。
そもそも幕府の思想とキリスト教思想は相性がよくありません。
幕府は武士階級による支配を円滑に行うために身分制度を正当化していました。
一方でキリスト教は「人は神の前ではみな平等」という考えを持ち身分制度とは真っ向から対立するものでした。キリスト教は人々が幕府に反乱を起こす一つのきっかけになりえたのです。
②貿易統制を容易にする
(長崎港図 出典:Wikipedia)
鎖国が貿易統制策というのは先ほど述べました。
考えてみてください・・・日本中の商人に海外との貿易を認めるのと、4つの地域のみに貿易を認めるのとではどちらが管理しやすいでしょうか?
もちろん後者です。
日本中の商人に法令を出し規制することは管理の目を広げなければならず面倒だったのですね。
実際、幕府は必要に応じてこれら4つの窓口に法令を出し貿易を規制していました。
例えば正徳の治の例。
海舶互市新例は長崎に出した法律として有名ですが、この法令の中の特に銀や銅の取引量に関する規制は長崎だけでなくそれ以外にも出ています。
鎖国に至るまで
では鎖国を2つの政策を軸に時系列で追ってみましょう。
①日本人の海外渡航禁止
日本人の海外渡航は当初は朱印状をもった大名や商人に認められていました。
幕府が発行する朱印状を持った人が乗る船を朱印船といい、これによって行われる貿易を朱印船貿易といいます。
しかし、東南アジアで朱印船がトラブルに巻き込まれたことを契機に、1631年老中が奉書を出し、それに基づき長崎奉行が渡航許可を出すシステムに変更しました。これが奉書船の制度です。
しかし、後に日本商船を使って密航する外国人が日本に入ってくる恐れを抱いた幕府は、キリスト教を完全に禁止するために1635年に日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止しました。
②他国の来航制限『ヨーロッパ諸国』
日本はもともとポルトガル・スペインとは貿易をしていましたが江戸時代に入って新たにオランダ・イギリスとも貿易するようになりました。
しかし、禁教令を出すと入港地と国に対して制限をかけはじめます。
まずスペインに対しては1624年に国交を断然し1625年にスペイン商船の来航を禁止しました。
そしてポルトガルに対しては1639年にポルトガル商船の来航を全面的に禁止します。
スペインもポルトガルもキリスト教の布教に力を入れていた国でした。
一方でオランダはキリスト教の布教に対してはスペイン・ポルトガルほど熱心ではなかったので、貿易のみを行うという条件のもと貿易を続けました。
(好奇心で出島のオランダ人をみている日本人 出典:Wikipedia)
そして、オランダ船の来航は長崎のみに限定し1641年にオランダ商館を長崎出島に移転します。
この時点で鎖国は完成したという人もいます。オランダはオランダ商館長に対し世界の情勢を報告するオランダ風説書の提出も求められていたことは留意しましょう。
なおイギリスは競争に負け1623年に自主的に日本から撤退しました。
③他国の来航制限『中国とその他』
(唐人屋敷 出典:Wikipedia)
中国については1635年に商船の入港地を長崎に限定しました。
明が1644年に滅亡し清が中国での覇権を握り、中国商船の来航も増える中で1688年には長崎に唐人屋敷を建設し中国人の居留を限定しました。
これは密貿易を防ぐための方策です。
それ以外の国に関しては江戸幕府に入る前から深いかかわりを持っていた大名家に貿易を許可しました。
朝鮮は対馬の宗氏、琉球王国は薩摩の島津氏、アイヌは松前藩の松前氏です。
このようにして幕府は他国との通商を掌握しすべて幕府の監視が届きやすいように整えていったのです。
鎖国の終わり
江戸時代も後期に入ると産業革命で力をつけた欧米諸国が日本に接近しようとします。
幕府は海防強化を行い、鎖国を維持する姿勢を見せましたがアヘン戦争で清が敗北したこと、黒船の脅威を幕府が見せつけられたことをきっかけに開港に転じました。
1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約を始めとする安政の五か国条約を結び、欧米諸国と貿易を行うようになりました。
これによって鎖国は終了を迎えます。
まとめ
・鎖国という名を与えたのは志筑忠雄という蘭学者。
・鎖国とは禁教と貿易統制を目的に日本人の海外渡航禁止と外国船来航規制を断行した政策のこと。
・当初、日本人の海外渡航は朱印状をもった大名や商人に認められていた。
・1631年に日本人の海外渡航を奉書船に限定。
・1635年に日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止。
・1625年にスペイン商船の来航を禁止。
・1639年にポルトガル商船の来航を全面的に禁止。
・1641年にオランダ商館を長崎出島に移転。
・1635年に中国商船の入港地を長崎に限定。
・1858年に日米修好通商条約を結んだほか、安政の五か国条約を結び欧米諸国と貿易を行うようになり鎖国は終了。